三国志の呉について質問です。
呉の孫権が即位したとき、父・孫堅の諡号を「武烈帝」とし兄・孫策を「長沙桓王」としました。
なぜ孫策は皇帝でなく王の諡号だったのでしょうか?政治的意図でもあるのでしょうか?
孫策の諡号を王にとどめた理由を書いた記述は残されていないため、はっきりとした意図はわかりません。
『三国志』の「孫破虜討逆伝」における評の中で、陳寿は「孫権の孫策に対する尊崇は決して十分ではなく、 孫策の息子が侯爵の位しか与えられなかったのは、道義の点で欠けるものであった」と書いていますが、それ以上の政治的意図等の記述はありません。
ここからは私の推測ですが、孫権は皇位継承において孫策の子孫を除外し自らの子孫に確実に皇統を伝える意図があったのではないでしょうか。
あるいは孫策系の皇族の政治的影響力を弱める意図があったのかもしれません。
孫権の政権は江東の名士・豪族との連合政権の色彩が強く、彼らにも一定の配慮をしなければなりません。
孫策の統治時代は孫氏政権が江東の豪族と対立する場面が多く、彼らと協調体制に入った孫権時代でも豪族の孫策への印象は良くなかったのかも。
孫策系の皇族が力を持つことを江東の豪族たちが嫌がり、その意に孫権が配慮したのかもしれません。
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