三国志って?
ゲームの三国無双とかしてるんですがまったく歴史についてはわかりません
結局、どこの勢力が強かったんですか?
日本でいうなら誰が秀吉だったんでしょうか?
今から、1800年前の中国で起こった天下をねらう3つの国、
魏・呉・蜀で皇帝が乱立し、
世が荒れていた時代の事を記したものを「三国志」といいます。
魏<曹操・三国無双では青色のモチーフ>が一番人口が多く、
一番強かったです。
呉<孫権(無双では孫堅がトップ)・赤のモチーフ>が最後まで生き残り、
水軍が強かったです。
蜀<劉備・緑がモチーフ>は漢の後継的存在で、
漢の復興のため戦いました。
無双でいう、他勢力は3つのどこに属さない、
もしくは魏呉蜀ができる前の人々です。
11年3月発売予定(PS3)の真・三国無双6で晋という勢力が登場します。
晋<司馬懿・水色のモチーフ>は魏に仕えていた
司馬懿という人物が反乱をおこして、
魏王朝を倒し、懿の息子(師・昭兄弟)・孫(炎)たちが建てた国です。
結局一番強かったのは魏(≒晋)ですかね~
秀吉は司馬懿ですね。
魏は蜀を滅ぼし、魏は晋(司馬一族)に滅ぼされ、呉は晋に滅ぼされました。
文がヘタですいません・・・ 分かっていただけたら、幸いです。
三国志も三国無双も、三国時代(曹丕が建国した魏・孫権の建国した呉・劉備の建国した蜀)をモチーフにしています。
日本で言う秀吉的な存在ならば、魏を建国した曹丕の父親である曹操だと思いますね。
国力も魏が呉・蜀と比べて圧倒的で、呉と蜀を合わせて、ようやく魏に対抗出来るというレベルです。
皆様が概ね正しく説明して下さってるし回答しなくてもいいかなぁ…と思っていたのですが、ひとつだけ。
司馬懿を秀吉に比するのはどうかと思います。
司馬懿と言えば、曹操の時代にはその能力を警戒されて用いられず、魏の成立後(曹操の死後)に重用されます。しかし一旦失脚し、ボケたフリなどしながらじっと耐えて時期を待ち、チャンスをとらえて一気にクーデターで政権を奪うと長男(司馬師)→次男(司馬昭)と権力を引き継ぎ、ついに孫(司馬炎)の代に魏を滅ぼし晋を興しました。
この忍耐力と行動・結果を考えれば、司馬懿はどう見ても秀吉より家康と言うべきでしょう。
では秀吉は誰になるか。
すでにご回答が出ていますが劉備がふさわしいと考えます。
ムシロを織って売り歩くような極貧生活から、大志を胸に乱世を渡り歩き、紆余曲折を経てついには蜀漢の皇帝にまで登り詰めた。この成り上がりっぷりこそ秀吉に相応しいかと。
まあ、劉備は最初から「後漢の皇族」という評価がついて回ったので、厳密には秀吉より恵まれていましたが(^_^;
>日本でいうなら誰が秀吉だったんでしょうか?
そりゃ日本でいってんだから秀吉ですよ
まず、質問に答えますと
一番強かった国は、曹操率いる魏
次が、孫堅、孫策、孫権の呉
三国の中で、一番勢力の小さいのが、劉備の蜀です。
日本で言う秀吉的存在は、司馬氏!
司馬懿がクーデタを起こし、国を乗っ取り、孫の司馬炎が分裂した国を統一して、晋を建国しました。
補足として
質問者が、三国志の歴史を知らないらしいので、簡単に説明します。
主な人物
曹操(魏)、劉備(蜀)、孫権(呉)、です。
魏には、曹操の子の曹丕、いとこの夏侯惇、夏侯淵、後にクーデターを起こす司馬懿、曹操に悪来と呼ばれた典韋、許褚、張郃などがいます。
蜀には、劉備と義兄弟の契りを結んだ関羽と張飛、常山の趙雲、臥龍と称された軍師 諸葛亮、老いてなお盛んな弓の名手 黄忠などがいます。
呉には、孫権の父 孫堅、兄の孫策、呉の宿将 黄蓋、孫策の親友 周喩、周喩の後の軍師を継いだ、呂蒙と陸遜などがいます。
戦いは時代順に、黄巾の乱(張角率いる黄巾族VS後漢軍) - 陽人の戦い(董卓軍VS反董卓連合軍) - 官渡の戦い(袁紹軍VS曹操軍) - 倉亭の戦い(袁紹軍VS曹操軍) - 長坂の戦い(劉備軍VS曹操軍) - 赤壁の戦い(曹操軍VS孫権軍+諸葛亮) - 潼関の戦い(馬超・韓遂らの連合軍VS曹操軍) - 定軍山の戦い(曹操軍VS劉備軍) - 合肥の戦い(孫権軍VS曹操軍) - 夷陵の戦い(劉備VS孫権軍) - 諸葛亮による南征(南方異民VS諸葛亮軍) - 街亭の戦い(諸葛亮軍VS張郃軍) - 陳倉の戦い(諸葛亮軍VS魏軍) - 五丈原の戦い(諸葛亮軍VS司馬懿軍) -段谷の戦い(蜀軍VS司馬懿軍)です。すべて、後者の勝利です。
三国志は、蜀の陳寿が記した歴史書で、それを元にして作られた読み物が「三国志演義(以下演義)」です。「演義」では後漢末に起こった「黄巾の乱」から始まり、劉備玄徳が主人公です。
「黄巾の乱」平定後、時代はさらに混迷を深め、劉備のライバルとなるのが曹操孟徳、呉の孫権の父・孫堅などが台頭し、群雄割拠の状態になります。
やがて曹操が中国のほぼ北半分を領有し、劉備は土地なしの根無し草のまま孫権を頼り、彼と手を組み「赤壁の戦い」で曹操を大敗させ、その後、益州(現在の四川省、雲南省)を領有化し、曹操が魏、劉備が蜀、孫権が呉の「三国鼎立」状態となります。これが「三国時代」です。
勢力ですが、劉備がジプシー化する以前から曹操は後漢最後の皇帝・献帝を掌中に収め、袁紹を「官渡の戦い」で破ってからは中原(河南省を中心とし、山東省の西部から河北省・山西省の南部、陝西省の東部にわたる華北平原を指す)を領有する中華最大の勢力となります。孫権もこれに次ぐ勢力を持ちますが、中原を領有するか否かの差は大きかったのです。つまり魏の勢力が最大でした。ちなみに秀吉に当たるのは、貧乏から旗揚げをして蜀の皇帝になった劉備が該当すると思います。
なお、後漢は曹操が220年に亡くなり、後を継いだ曹丕(そうひ)が献帝から帝位を譲り受け(これを禅譲と言いますが、実質的には簒奪(さんだつ)も同然でした)る形で滅亡しました。これを受け、劉備と孫権も皇帝を名乗るのです。
下の方も書かれたとおり滅びたのは蜀→魏→呉の順番ですが、魏は曹操の孫・曹叡の没後に家臣の司馬一族が専横するようになり、4代皇帝の曹髦(そうぼう)がクーデターに失敗し殺害されてからは完全に司馬氏に乗っ取られた状態になります(この時点では蜀はまだ滅んでいません)。魏は蜀滅亡から2年後の265年に司馬炎に帝位を禅譲し国名は晋になりますが、上記のことから三国で最初に滅んだのは実質的には魏と言う歴史学者もいるようです。
蜀と呉が一緒になって戦うくらいだから魏が強いと思う。
でも滅びた順番は蜀→魏→呉だったと思う。
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