三国志教えてください。
無双OROCHIZを始めましたが三国志というものが全くわかりません。
簡単に教えていただけませんか?実話ですか?
あと「ちょううんしりゅう」が「ちょうしりゅう」と呼ばれたりしてますが
三国志の登場人物の名前はどういう仕組みになっているんでしょうか?
三国志というのは、今から約千八百年前に陳寿によって書かれた歴史書「三国志」の記述および、それを基に、明代に羅貫中が小説化した「三国演義」等の、一種の時代物作品の総称です。
この三国志の舞台は千八百年前の中国、その時の王朝・漢(正確には後漢)の時代の末期です。
184年に起こった大規模宗教反乱「黄巾の乱」を皮切りに巻き起こる乱世、そして、曹操、孫権、劉備による魏・呉・蜀という三つの国が中国大陸に興り、それが晋という国に統一されるまでを指します。
「三国演義」では、その中でも蜀の皇帝・劉備を主人公として関羽、張飛、趙雲という豪傑や諸葛亮などの軍師と共に乱世を戦う姿を描いています。
これは俗に七割史実、三割虚構と言われており、つまり実話を基にしたお話です。
無双OROCHIZ にしても、他の三国志関連の物語にしても大概は「三国演義」に基づいています。
書店に行けば解説書などが数多く売られていますのでそれを参考にしてはいかがでしょう。
名前の仕組みについてですが、中国の名前の決まりとして、名と字(あざな)というものがあります。
まず日本と同じように名字があります。「ちょううんしりゅう」のばあいですと、「ちょう」がそれですね。で、名。これは生まれたときに付けられる名前です。つまり「うん」の事です。
そして字(あざな)があります。これは日本で言う元服、つまりは成人になったときに付けられ、日常生活では名ではなく、字で呼ばれます。これが「しりゅう」にあたることばなのです。
中国では名を呼ばれることを嫌う風習があり、名を呼べるのは主君か親ぐらいのもなのです。ですから、人前で名乗る場合なども「ちょうしりゅう」となるわけです。また、字についても、目上か、親しい同僚ぐらいしか呼べず、目下の者は役職などで呼ぶのです。「ちょううん」の場合ですと「ちょう将軍」といった感じですね。
長々と書きましたが、お役に立てれば幸いです。
超初心者にもわかる三国志。
昔、昔、中国は漢王室という王族が取り仕切ってました。
が、その王室の力が弱まり、中国の名だたる武将たちが「よっしゃ、俺が天下をとってやる」と立ち上がりました。
まあ、日本で言うところの戦国時代です。
色々あってその戦いに勝ち残ったのが、蜀という国の劉備、魏という国の曹操、呉という国の孫権。その三国(だから三国志)。
三国志は主に、劉備、曹操、孫権の出世の様子と国をめぐった攻防を描いております。
日本であえて言うならば、豊臣 秀吉、徳川 家康、織田 信長の歴史ってとこでしょうか?(ちょっと、違うか)
横山光輝による漫画版が有名で文庫化もされてますし適当に読んで理解してください。
ええ、実話です。
これは、歴史的に言いますと、三国志とは、中国でのことです。
ちょうど、日本の卑弥呼のいた時と大体同じ年号です。
このころの中国には、魏、呉、蜀の三国がとても大きな勢力を
持ちお互い対立していました。
魏では、曹操孟徳、
呉では、孫堅文台
蜀では、劉備元徳が中心で活躍しました。
登場人物の名前は大体が字「あざな」です。「苗字みたいなもの」
孟徳や元徳などの名前が日本でいう、名前です。
もっと、内容を詳しく知りたいのなら、図書館に行ってみてはどうでしょうか?
それから、映画の「レッドクリフ」とかでも十分知ることが出来ます。
「こっちの方がおすすめ」
三国志は紀元2世紀後半~3世紀までの、後漢が滅び晋が全土を統一するまでの歴史です。
曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の三国に分かれたことから三国志といいます。
当時、漢王朝は腐敗しており、これに対し立ち上がった清流派の名士が迫害される事件が起きます。「党錮の禁」です。後に三国を倒し晋を建国した司馬炎は司馬懿の孫で、司馬懿も名士の一族でした。
184年、張角が率いる大規模な農民反乱が起きます。彼らの黄色い頭巾からこの反乱は「黄巾の乱」と呼ばれました。この反乱を鎮圧するための官軍の中に曹操、孫権の父孫堅、劉備、劉備に従う関羽、張飛のらの姿がありました。ほどなく張角は病死します。
混乱に乗じて朝廷の権力を握ったのが董卓でした。董卓は歴代皇帝の墓を暴いたり、勝手に都を移したりとやりたい放題でしたが、192年、腹心の呂布に殺されます。しかし呂布も董卓の残党に敗れて都を追われます。
その後、中国は戦国時代に突入し、袁紹、袁術兄弟が天下を争う状況になります。袁紹配下の曹操は呂布を討つなど力をつけ、袁紹との対立が決定的になります。一方、袁術から兵を借り受けた孫堅の息子孫策も勢力を伸ばしていました。
199年、住民に重税を科し、自分は皇帝を自称するなどの暴挙で民心を失った袁術は病死します。
200年、袁紹と曹操の決戦が始まります。劣勢だった曹操が、優柔不断な袁紹の隙を突いて打ち破りました。「官渡の戦い」です。
208年、劉表の荊州に逃れていた劉備は「三顧の礼」で諸葛亮を迎えます。諸葛亮が劉備に説いたのが「天下三分の計」でした。天下三分の計とは天下を曹操、孫権、劉備の三国に分け、最も強い曹操を孫権とともに倒し、その後に孫権を倒して天下を平定するという策です。
同年、劉表が病死すると荊州は曹操に降伏し、劉備は孫策の弟孫権を頼って落ち伸びます。
さらに曹操は孫権に降伏するように迫りますが、周瑜が指揮する孫権、劉備連合軍は水上で曹操軍を襲撃し、これを退けます。「赤壁の戦い」です。その後、劉備は荊州と益州を攻略し、天下は三国鼎立(ていりつ=三本脚の器のように並び立つこと)の情勢になります。
216年、曹操は魏王になります。
219年、劉備は漢中も攻略し、「漢中王」を称します。しかし荊州の関羽が孫権の攻撃を受け、斬られます。翌年に曹操も病死し、曹丕が跡を継ぎます。曹丕は禅譲(ぜんじょう)を受け、皇帝に即位。魏を建国します。ここに漢王朝は滅亡しました。221年、劉備は漢王朝を復興させるとして皇帝に即位。この王朝は蜀漢ないし蜀と呼ばれます。
禅譲とは血縁ではなく徳のあるものに皇帝がその地位を譲るというもので、実際は力で奪い取ることがほとんどでした。
222年、復讐に燃える劉備は大軍を動員し、孫権軍をさんざんに打ち破ります。しかし孫権軍の陸遜は劉備軍が長い列になっていた隙を見逃さず、火計で劉備軍を壊滅させました。「夷陵の戦い」です。劉備は敗戦のショックで翌年に死亡します。
その後も三国による戦いは続きます。227年、蜀の諸葛亮は「出師の表」を奉り、北伐を開始。魏の司馬懿と激戦を繰り広げましたが、234年、五丈原で陣没します。司馬懿が用心して蜀軍を追撃しなかったため、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という言葉が生まれました。
229年には孫権が皇帝に即位、呉を建国します。孫権は252年に死去しますが、晩年は後継者問題をこじらせ、245年には功臣の陸遜を憤死させる事態になります。
263年、蜀の劉禅が魏に降伏し、滅亡します。265年、司馬炎が魏の曹奐に禅譲を行わせ、晋を建国。そして280年、呉の孫晧が晋に降伏、天下は晋によって統一され、三国時代は幕を閉じます。
趙雲でしたら趙が姓、雲が名、子竜が字(あざな)です。字とは本名の他につける呼び名のことです。
昔は名前には霊的な力があると信じられていたため、名を呼ぶことを避けていました。名は諱(いみな)ともいい、諱は忌み名に通じます。
しかし当時の字の使い方にまだ定説はなく、馬超が劉備の傘下に入ったとき「おう、玄徳」と字で読んだため関羽と張飛は内心馬超を殺そうと考え、馬超もそれを察して名で呼ぶようになったという話が伝わっています。これはフィクションですが、名と字には複雑な使い分けがあったのは確かです。
ちなみに名が一字、字がニ字というのは当時の流行で、時代によって違います。
昔の人は多くの名前を持っており、成人するとつける字の他に子供のころの呼び名の幼名というのもあって、曹操の幼名の阿瞞が有名です。
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