三国志の魯粛はどこが優れているのですか?
横山先生の三国志ではお茶目な人で、孔明とかに手玉に取られ
挙句の果てに荊州も取り返せませんでした。
でも僕は魯粛は結構好きなのです(性格とか)
しかしいまいち能力がわかりません
まぁ呉で周喩の後継者に選ばれているのですごいことはよくわかります
あと周喩の漢字あってますよね?
詳しく知りたければ正史の魯粛像を調べてみることです。端的に言えば孫権に進むべき道を示し、赤壁以後はいつ破綻してもおかしくなかった孫権-劉備の同盟関係を保ち続けた人物です。
お茶目…ではあるかもしれませんが(色んな意味でねw)、横山三国志のようにお人好しでも利用されてばっかの能無しでもありません。結構腹黒い面も多く劉備らを利用することで呉の安全を保とうと考えていました。
あと「周瑜」ですね。惜しいw
魯粛の優れている点は、まず第一におおらかさ。度量の広さも言えます。まだ孫権につかえていないころには、兵糧の不足に悩んでいた周瑜に、家の蔵を建物ごと1個プレゼントした、というお話があり、これによって周瑜は孫権への推挙を決定したといわれています。
第2に、先の人たちもおっしゃっていることですが、遠大かつ長期的な作戦を立てることのできる戦略眼を持っていたことです。関羽を殺し、荊州を奪うなど、蜀を叩きのめすことにこだわったのちの呂蒙と比べて、魯粛の考え方は呉のみが大きくなることではなく、呉蜀2国の関係を保ち大国魏に対抗しうる国力の増加を図るものでした。諸葛亮の天下三分の計とにていますね。
ですから都督になったあとの魯粛は、諸葛謹とともにもっぱら蜀との関係の円滑化に努めています。荊州の返還を半分にしたのもそういう考え方があったからでしょう。また、孫権の性格のせいとも言われていますが、呉は終始長江の沿岸という地理的な条件を生かし、内政に力を入れ続けていました。このことからも魯粛の考え方が大陸の覇権を握ることではなく、対外的な国防力を身に着けたうえでの国造り、一言でいうと富国強兵を達成することであるというのがうかがえます。
以上の二つが僕の考える魯粛像で、優れた点であると思います。
最後になりましたが、周瑜、です。ややこしいですよね(笑)
魯粛に関して言えば正史と演技で180度ベクトルの違う人物像をしていますのである詳しく書こうとすると長くなるのである程度までは・・・
まず魯粛の優れているところですがまず天下を見渡すことのできる戦略眼を持っていたというところでしょうか
「天下三分」といえば諸葛亮が有名ですが魯粛も孫権に対し孫呉の天下統一のための手段として建策しています
また肝の据わった人で赤壁の戦いのまえに孫権に「私は土地の名士ですから曹魏でも重用されるでしょうがあなたはそんなことはありません」というようなニュアンスのことを孫権本人に対して言っています
一貫して冷静なかつ剛胆な現実主義者のような感じでえがかれていますね
また荊州ですが取り返せなかったではなく取り返さなかったというほうが正しいと思います
この単刀赴会ですが演技では魯粛は関羽におどされお情けのような感じで荊州の半分を渡してもらっていますが正史のほうでは魯粛は舌三寸を持って関羽を一喝し荊州の半分を取り戻しています
ではなぜ半分だけなのかということですがこの時点の劉備はまだ入蜀をはたしたばかりであり基盤もまだまだ脆弱でした
また、劉備陣営を支えていた将兵たちは基本荊州の名士たちがおも(たとえば馬氏など)でした
この状態で劉備が荊州をすべて失うことは=劉備陣営の崩壊を招く可能性が高くそれは天下三分の形をつくりさらにそこからの漁夫の利を狙っていた魯粛にとってはあまりよりろしくない
しかしこのまま荊州を取られ続けるのも孫権の名目上あまりよろしくない
そのなかでの落とし所が荊州の半分返還だったのだと私は考えています
質問とは関係ありませんがなぜ正史と演技でこのような違いがうまれたのかということですが魯粛の立ち位置が関係していると思います
正史で魯粛は天下三分のため劉備を利用していることになります
しかし劉備(蜀)が主人公の演技ではこの状態はまずいということで魯粛に性格補正でもはいったんでしょうね
まあどちらにしても味のある人物だと思います
あと「周瑜」ですね
喩のほうが少し違います
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