2012年3月29日木曜日

三国志です。 219年の関羽の北上時に孫権も合肥に北上し、さらにそれと同時に劉...

三国志です。





219年の関羽の北上時に孫権も合肥に北上し、さらにそれと同時に劉備が長安に北上したら曹魏はどうなったと思いますか?







残念ながらご質問の前提条件はことごとく成り立たないものです。



219年と言えば、劉備ら益州の本拠地勢力は漢中争奪に明け暮れています。やっとの事で夏侯淵を討ち取り魏軍を撤退させますが、そこからさらに長安に北上する余力などあろうはずもありません。



一方、呉は呉で関羽の度重なる背信や侮辱に業を煮やしきっていた時期で、関羽との関係は最悪でした。

これは、それまで何だかんだ言っても関羽の荊州支配を認めていた呉が、魏と組んでまで奪回にかかった、その事実が何よりも雄弁に証明しています。

そもそも関羽は、孫権を同盟相手ではなく敵対勢力と考えていたのではないかと疑いたくなるほどです。



おそらく、関羽は関羽で漢中侵攻と足並みを揃えたつもりだったんでしょう。しかし、それは単に二方面にバラバラに侵攻したに過ぎず、しかも呉との信頼関係を日頃から構築していなかったせいで後背を突かれる結果となりました。

味方(益州)の増援・連携は期待できず、敵(曹仁)には于禁・ホウ悳・徐晃と次々に増援が現れ、しかも同盟勢力(呂蒙・陸遜)まで敵に回ってしまったとなれば、長安を攻めるどころか荊州を保つ事すら不可能です。

事実、荊州は失陥し関羽自身も斬られてしまいました。

曹魏がどうなるか…という以前の話だった訳です。



まあそれでもそういった前後の事情を全部無視したifを…という話なら、zigentaishiさんが考察した通りでしょうね。








蜀派なら劉備&関羽の快進撃

魏派なら関羽、徐晃に敗退を持って撤退、そのまま魏国堅守



じゃないんですかね?

if話の世界には確固たる「正解」なんてないと思いますから。







まずは呉ですが、合肥攻めはことごとく失敗しています。呂蒙は病がちなので(計略含みもあって陸遜と交代したとはいえ、関羽敗死後すぐなくなった)孫権が攻める。いつもどおり撤退。

長安方面は益州漢中統治まもなく余力無し。うまくいかない。

関羽。呉が背後を襲わなければ…というのは事実誤認になるのです。樊の水は引き始め、徐晃に敗退しており、あとは撤退するだけ。呉は合肥を諦めたら魏と結んで荊州を取ると思います。その方が利があります。すると史実通りかな?

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