三国志について質問です。呉の軍師陸遜は245年で死にましたが、死因はなんですか?
二宮の変で憤死したとのことですので、病死になりますね。
「憤死」とは、「憤慨のあまり亡くなること」の意味であり、主に脳溢血や心臓病などが考えられます。
ある意味「死因」は、呉王・孫権が、後継者問題で問題を先送りするなど優柔不断な対応しかできず、国内を二分させただけでなく、陸遜に敵対する楊竺ら孫覇派の讒言を受けて、無実の功臣・陸遜に問責の使者を送るなど長年の貢献を踏みにじるような対応をしたことによるのではないかと思います。
陸遜は齢63で亡くなっています。他の回答者さんのおっしゃるとおり、孫権の後継者問題で正論を説けば解くほど疎まれ、孫権から問責の使者を遣わされ、おそらく文書を読み上げたか、あるいは伝えられたかしているうちに、神経が昂ぶり発作か何かを生じて亡くなったのでしょう。高齢でしたから。
憤死とされています
要は心労が祟って死んだということですね
孫権の後継者争いに口出ししたことを妬まれ、
陸遜は免官された挙句孫権に詰問の使者を幾度となく送られ、
憤り(心労)のあまり体調を崩してそのまま死亡したのです
簡単に言えば病死ですが、単純な病ではなく上記の経緯があります
ちなみに、演義では彼の死はカットされてます
たしか病死だったような…。
0 件のコメント:
コメントを投稿