三国志時代の料理って現在でもある料理だったりするのでしょうか?
お酒もどんなお酒だったのでしょうか?
三国時代とほぼ同時期といっていい後漢時代の豪族の墳墓には、
権力誇示のために、宴会の風景がしばしば壁画に描かれていますが、
それらから当時の宴会の様子を読み取ると、
客席はイグサやガマ、竹の皮なので編んだ筵を敷いて設けました。
上等な席は、周囲が錦織で縁取られ、
各自の前に個人用の「食案」(小机)が置かれ、
酒やご馳走が振舞われたようです。
宴席の中央には、多数の食器がおくことの出来る「大食案」が置かれ、
給仕が付いて、食べ物を取り分け客に勧めたようです。
一番のご馳走は「肉スープ」。
『羹(あつもの)』と呼ばれるものです。
肉は「牛」が尊ばれ、羊、狗(いぬ)がこれに続きました。
鶏や豚は、どちらかといえば庶民の食べ物だったみたいですが、
漢中期には豚の品種改良が進み、狗の値段を超えたといわれています。
他には、
鮒や鯉などの淡水魚、
雉、雁、鴨、鶴、鶉などの野鳥、
瓜、筍、蓮根、芋、茗荷などの野菜の煮付け、
デザートに、棗、梨、梅などが添えられていたと考えられています。
スープは、鼎(かなえ)といわれる三本足の大鍋で煮られ、
塩、醤油、糖、麹味噌、乾納豆などで味付けされていたといわれます。
主人の席は、奥に設けられ、
榻(とう)という高座の中央に正座して客を迎えました。
当時の酒には、
斉(いわゆる神酒)、
酒(一般的に飲まれていた酒)、
漿(穀物の粉を溶いた水を発酵)の3種類があったといいます。
斉には、高級順に、泛斉.醴斉.(央の下に皿)斉.(糸是)斉.沈斉
酒には、高級順に、事酒.昔酒.清酒、の種類があったとされます。
普段は、先の回答者さんも仰っているように、
アルコール度数の低いと思われる「漿(上澄のような白濁酒)」
を飲んでいたと推測されます。
また呉には、周の時代に初めて酒(杜康酒)を作ったといわれる「杜康」が、
かの地に移り住み、焼け焦げの米飯で作った酒(黒杜酒)があったといいます。
口当り良く、香りを放つ銘酒は、水稲による大米を産す呉ならではといいます。
大米は栄養価地が高く、ことにもち米が優秀です。
江南の水質も醇であり酒造に適しているそうです。
「孫権」やその弟「孫翊」が、三国志いちにを争う酒豪(酒乱)というのも、
呉という土地柄が関係しているのでしょうかね。
酒を客に勧めるときは、口の広い三足の尊(そん)に移し、
勺ですくって酒盃に注ぎました。
酒盃は両側に出っ張りの付いた楕円形の耳杯(じはい)がよく使われ、
酒を温める時は、急須に三足がついた煮沸器を用いたようです。
酒はオウ(公の下に瓦)と呼ばれる大甕で貯えられ、素焼きの陶器で、
300ℓを貯蔵できるものもあったとされます。
今日の酒ビンに該当する鐘(しょう)という
首の細い蓋付きの壺もあったみたいです。
有力者の庭には、梅園や桃園などがあり、
今で言う東屋のような休憩所があり、
テーブルと椅子が設けられていたみたいです。
曹操と劉備が、世の中のの英傑を語り合ったのも、こういう処だったのでしょうね。
ちなみに、
中国料理の最初の体系は、3千年前の商朝に形成されたとされます。
「商朝のスープ王」と呼ばれた宰相「伊尹」は中国料理の祖ともいわれ、
世界でもっとも早い料理論といわれる「呂氏春秋・本味篇」には、
彼の料理に対する卓抜した見解をうかがうことができます。
伊尹はその著書のなかで、
材料の選択、味加減、火加減の把握から調理割烹芸術、
および食品の栄養衛生面に至るまで詳細で的を射た論述を展開しています。
もうひとつ、
日本でいわれる中国四大料理は、北京.上海.四川.広東ですが、
本場中国では、四大菜系ともいわれ
【四大料理(菜系)】
魯(山東:ルーツアイ)川(四川:チュアンツアイ)
揚(揚州(江蘇):スーツアイ)粤(広東:ユエツアイ)。
【八大料理(菜系)】
四大料理に、湘(湖南)ミン(福建)徽(安徽)浙(浙江)の料理を加えたもの。
【十大料理(菜系)】
八大料理に、北京、上海料理を加えたもの。
とされる場合が多いそうです。
一般的な食物だと「饅頭」ではないでしょうか。
逸話ですが、蜀の南蛮征伐で降伏した孟獲が、蜀軍を見送る際、渡河する予定の川が荒れていたので、習わしに従って川に人首を捧げようとしました。それを聞いた諸葛亮が「むやみな殺生はよくない」と諌め、人首の代わりに食物を人首状に見立て、川の神に捧げました。
これが饅頭の由来とされているそうです。
料理は何とも言えませんが、曹植の詩だったかの一節に確か
料理に関する記述があったと思います。それを参考にすれば、
ある程度どんなものが食されていたか分かるかもしれません。
お酒にかんしては先に書かれた方のおっしゃる通りなのですが、
それ以外に曹操が面白い酒の醸造方法がある、と言うことで
その醸造法を記録し、上奏しています。
この醸造法、実は現在の日本酒の作り方とよく似ているらしく、
ある意味では日本酒の祖とも言えるかもしれませんね。
料理は現在もあると思います、特に蜀(漢)の地方は四川料理なので辛いものが多い。
お酒に関しては醸造酒が多く蒸留する工程も上手くないので、アルコール度数はかなり低い(現在のノンアルコール飲料に近い)、そのため甕いっぱい呑んだりする記述も多いのです。
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