三国志の呉の朱然のことを詳しく教えてください
関羽捕縛前後の話は小説も正史も同じですね。まぁそれ以前の
話は小説では全然触れられていませんが。先の方が小説の方の
話を載せていますので、正史の方を書きます。
朱然は孫権の学友であり、彼が信頼する武将の一人でした。
孫権が呉を率いるようになると県の長や令になり、山越討伐等で
功績を挙げています。
後に呂蒙に従い、関羽を生け捕りにするという功績を残しています。
また呂蒙が危篤になったとき、「決断力、実行力ともに十二分」と
して呂蒙の後継者として推薦されていました。
劉備侵攻の際は陸遜と共に防衛に当たり、別働隊を率いて劉備
の先鋒を撃破、退路を遮断して敗走させています。また、この隙に
魏軍が侵攻してくる恐れがあることを進言したりもしています。
また、魏の三方向侵攻作戦では江陵の防衛に当たり、魏の錚々
たるメンバーを相手に城を守り抜き、防衛に成功しています。これ
により魏にも朱然の名は鳴り響くようになりました。
それ以降も戦功を上げ続け、呉の重鎮として魏に睨みを利かせ
続けました。陸遜が亡くなると初期からの功臣は朱然のみとなり、
ますます孫権の信頼も厚くなりました。
しかし、朱然もほどなくして病に倒れ、249年に亡くなっています。
陸遜ほど派手ではありませんが、孫権としては陸遜以外で単独
で戦術を練り、敵と当たることのできる数少ない武将の一人だった
と思います。
1984年に彼の墓が発見され、最古の名刺などが出ていますね。
そう言う意味で、現代においては三国時代を知る上で重要な人物
の一人、と言う事になりますね。
揚州丹陽郡出身 朱治の姉の子で朱治の養子となった
呂蒙に従って荊州攻略に向かい関羽親子を攻め捕縛に成功する。
その後、劉備が敵討ちにきた時には右都督として水軍を率いた、しかし救援にきた趙雲に槍で突き殺される。
正史では呉将の最長老格の武将だった
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