三国志について質問お願いします
関羽が呉に首を斬られてショク軍が関羽の敵討ちに攻め込み陸遜の火計で返り討ちにされました
その時の総大将は劉備
軍師に馬良だったと思います
この時の軍師が諸葛亮だったら呉の国を滅亡させてたんですかね?
諸葛亮と陸遜が戦った話が無いと思うので非常に気になります
昔からの三国志ファンの方のご意見聞きたいです
回答宜しくお願いします
総大将は劉備でしょうが、軍師?って何なんでしょう…
馬良がこの戦いに参加したのは間違いありませんが…
軍師 大将のもとで、作戦・計略を考えめぐらす人。軍の参謀。 という意味の方で使っているんでしょうが、
そういう記述があるんでしょうか。
作戦立案にかかわっていないとは言えないでしょうが、馬良一人でやったとは言えないと思いますが…
そもそも戦いのとき、軍師って一人しかいないもんなんでしょうか…
軍の参謀なら複数いる方が自然だと思います。
馬良を武陵に派遣し、異民族を手懐けたという記録はあるみたいです(時期的には主力を猇亭においたときあたりに)
簡単に結論から言いますと、諸葛亮が軍師であっても(この言い方には少し違和感があるのですが、諸葛亮が作戦立案にかかわっていたらということですね)
呉を滅ぼすことはできないだろうということです。(あくまで"if"なので100%とは言えませんが高確率でということです)
まず、史実での夷陵の戦いですが、(兵力など、記述がない部分もあるので推測の部分があります)
あと、地図手書きなんで縮尺とか滅茶苦茶です。どの地点がどの地点より西にあるか東にあるか程度に参考にしてください。
・劉備10万(記述がないので推測になりますが)の兵を率いて侵攻 白帝城を大本営とする
・呉は魏に使者を送り臣従、魏の南下を防ぐ
・呉は陸遜を大都督に任命、朱然、潘璋、孫桓ら5万で巫県から夷陵一帯を守らせる
諸葛瑾は公安、孫権は武昌に駐屯し後詰に。総兵力は合わせて10万
・劉備は水陸から攻め入り、秭帰に入る。陸遜は退却し、敵を深く誘い込む。
(白帝城から?帰まで瞿塘峡、巫峡、西陵峡の三峡があり、蜀軍はそこに5,6百里も入り込むことになり戦線は長く伸びることになる)
・劉備は黄権を夷陵で陸遜と対峙させるが陸孫は撤退、精鋭を夷陵の陣の中に残す。
・劉備は南岸沿いに進んだが、先鋒が夷道で阻止され、主力を猇亭におく。
・劉備は陸遜を誘い出そうとするが失敗、劉備は陸上に陣を敷くが、布陣は巫県から夷陵まで6~7百里に及んでいた
・陸遜は火攻めで水軍の陣営を焼き、一斉反攻、夷道の包囲を突破し、涿郷、猇亭、馬安山(涿郷の少し北東あたり)で劉備を打ち破る
・巫県まで引いたが途中で孫桓に襲われ兵器や食糧を焼かれて白帝城に逃げ込む
以上が夷陵の戦いの大枠です。
問題は布陣が長く伸びすぎたことですね。
諸葛亮は戦が下手だったといいますが、この問題点には気がついたかもしれません。
ただ、巫県から夷陵まで600里ほど進軍し、敵を打ち破るのは容易ではありません。
しかも敵は決戦を避け、防御に徹しています。
基本的に防御は攻撃に勝る戦闘形態ですので、
たとえ司馬イや曹操を連れてこようと突破は困難ではないかと思います。
さらに、東南風が峡谷に吹いた場合には火攻めの危険があります。
かといって補給線は蜀軍の方が長く、陣を張ってにらみ合っているだけでは蜀軍が撤退せざるを得ません。
また、魏軍が北方から攻め入る可能性があります。
また、もし万が一勝利したとしても得るのは荊州だけだと思います。
もちろん荊州を得れば大戦果ですが呉を滅ぼすことは不可能です。
というか十万で呉に攻め入っても返り討ちされるのが目に見えています。
動員兵力は呉の方が多いんですよ。(2倍近く)
それに後詰として孫権たちもいるんですし。
そもそも呉領への遠征自体無理がある作戦です。
また、反対したという詳しい記述はありませんが、諸葛亮がこの作戦の立案に関わっていないということは、あまり乗り気ではなかったということでしょう。
誰を参謀にしようが、最初から無理な話だったということではないんでしょうか。
まあ、もう少し被害を抑えることはできたかもしれませんが。
諸葛亮じゃ無理(笑)
法正かホウトウでも微妙
シバイならそこそこ期待
韓信や孫武、チンケイシあたりなら大丈夫だと
蜀の戦法は、それ程史実と変わるものではありません。
国境付近の地を占領し、劉備が倒れるまで進軍を続けます。
これからが問題です。
馬良は、能力があったと思いますが、劉備に成り代り全軍を指揮する権威でも地位にありませんでした。
万事、軍役が滞り、全軍は行軍体制のまま、長期にわたり野営をする事になりました。
一方、諸葛亮孔明は蜀の丞相で軍律に厳しく、進むにしろ、留まるにしろ、それなりの陣形を整えます。
「夷陵の戦い」のような惨い大敗は防げたと思います。
孔明は、呉を滅ぼすことよりも、一番強大な魏に対抗する事を主眼においています。
有利な条件で講和して撤兵、共に魏に当たるように盟約を結びます。
これは、劉備の荊州奪回に反する事になり、処罰の対象になります。
しかし、総大将劉備の病臥を大義名分に和睦するのであれば、やむなしとなります。
劉備は、白帝城で薨去しますが、呉との戦いに敗れて悶死というよりも、陣中で倒れ指揮系統が大いに乱れ、その隙を陸遜に衝かれたのでしょう。
孔明と陸遜は睨み合いを続けるが、雌雄を決する迄には至らないと思います。
それが互いに犠牲が大きく、自国にとって不利益だと認識しているからです。
諸葛亮が軍師でも、勝てたかどうか分かりません。
かれは軍師というより政治家タイプでしたから。軍師としての能力があるなら劉備についていったと思います。
ですが彼は付いていきませんでした。正史での諸葛亮は「政治は得意だが戦は下手であった」と記されいます。
逆に諸葛亮は「法正が生きていればこの戦を止めていたであろうに…」と言っています軍師としての才能は法正のほうが
能力があったといわれています。
若い頃は私もなぜ決戦に孔明を連れていかないのだろうと思いましたが、史実を申しますと諸葛亮は軍師というより内政官です。だから随行しないのだと思います。
呉と濁とでは国力がちがいます。まともに攻めてもまず無理です。…
そこの所を理解していた諸葛孔明は劉玄徳に力説するのですが、頭に血が上った彼には聞き入れませんでした。…その隙を魏に攻め込まれたら…
だから孔明は留守を守ったんですね。…孔明としたら、劉備や関羽、張飛の間柄が軍師の自分でも入り込めないのをわかってましたからそれ以上言えなかった事でしょう。…結果惨敗!
軍師の言った通りの結末に濁に帰るに帰れず途中の国境付近の白帝城で亡くなってしまいます。
0 件のコメント:
コメントを投稿