三国志について。
今日学校で三国志の話になったんですが友人Aが「三国志って魏と呉と濁が戦う話しだよね?
」って言ったら自称三国志好きの友人Bが「三国志は三国鼎立からじゃなくて、三国が並びたつまでの経緯が面白いんだよ」と言っていたのですが友人Bが言ったことは本当ですか?友人Aは「三国鼎立前は三国じゃないから三国志じゃないだろ!」って言ってましたが・・・
また三国志の醍醐味とは何か、あと三国志の流れをできるだけ詳しく教えてください。
厳密な歴史の区分としては、孫権が呉を創建して三國がそろった西暦229年から、蜀漢が滅んで三國の一角が崩れた西暦263年までが三國時代になります。また、後漢が滅亡した西暦220年から晋が統一を果たす西暦280年までとする見方もあります。
しかし物語としては、群雄割拠の発端となった黄巾の乱(西暦184年)から群雄の興亡を経て三國鼎立し、統一に至る約100年間を描きます。
中でも、三國鼎立までの約40年間が、戦乱のドラマとしても人間のドラマとしても濃厚で人気がありますね。
三国志は正史と演義があって、日本で言う三国志は主に演義です。
演義は三国鼎立前からの物語なのでBの方が正しいです。そこまでの経緯が面白いかは人それぞれですが、私もそれに同意します。三国志とは名前だけで三国のみの戦いと言う意味ではありません。メインが三国というだけです。
醍醐味は様々な人物と戦いですかね、流れは書き切れないのでネットで調べた方がいいです。
両者とも間違いではありませんね。あなたは三国志を読んでいないわけですね。
三国志なので3つの国が中国統一を目指して争ったと言うことになります。黄巾の乱や赤壁の戦いなど有名な出来事がたくさんあります。ここでいちいち挙げていたら切りが無いので止めておきます。
この三国には呼び方は違いますが、王であったり、皇帝であったりとその国のトップがいます。三国が出来上がった後は、世襲制度で王や皇帝の一族が代々その国のトップを務めました。その後の三国の国盗り合戦の末に蜀という国が滅び、その次に呉が滅び、そして魏という国が残りました。(魏と言うより晋ですが)。
その一連の出来事がもちろん三国志ですが、その三国がどういう風にして出来上がったのかという部分が三国志の見どころでしょう。一般的に三国が出来上がった時点でのトップは、魏が曹操、蜀が劉備、呉が孫権でした。それぞれに志があって、自分の信念で行動し、国を建国するまでの過程が非常に面白いのです。
日本で三国志っていうと、後に書かれた「三国志 演義」を指すのが一般的でしょう。
よって友人Aさんの言うことが日本人の98%を占めると思います。
醍醐味は、武力・知恵などを存分に使って国を取り合う所がかな?
詳しい内容は、横山光輝の三国志をご覧下さい。私は小学校のときにコミック60巻集めて何度も読み直しました。三国志の大ファンです。ここでは語りつくせないほど、色んなことがありますから。
少し長くなりますが、質問に全力でお答えします。
黄巾の乱
漢王朝が滅び各地で張角を教祖とする一揆が起きました。かれらは頭に黄色い布を巻いていたことから黄巾賊と呼ばれ
討伐軍を派遣しましたが、鎮圧する事が出来ず各地の諸侯に加勢を求めました。曹操・孫堅・劉備の活躍もここから始まりす。
虎牢関の戦い
黄巾賊が敗れ権力を手にした董卓。そこに現れたのは袁紹を盟主とした反董卓連合軍!!
反董卓連合は虎牢関に進攻しました。董卓の配下には呂布という最強の武将がいたので、攻めあぐねていました。そこで連合軍に参加していた劉備配下の張飛が呂布に挑みました。しかし、なかなか勝負がつかないので、劉備と関羽も加わって3人で呂布に挑みました。それでも呂布を討ち取ることは出来ませんでした。
虎牢関の戦いでは、結局董卓を逃がしてしまいましたが、その後呂布の裏切りにより、董卓は呂布に殺されました。これによって『三国志』最大の悪人董卓は滅びました。
下ヒの戦い
曹操がみずから呂布討伐にでました。曹操は劉備と連合して、下ヒ城にいる呂布を包囲しました。呂布は陳宮や高順といった参謀の言うことに耳を貸さず、窮地に追い込まれ、袁術に救いを求めようとしたりしてもがきましたが、曹操に敗れました。
そのあと、曹操は呂布の力を惜しんで処分に迷いましたが、劉備に「呂布はいままで主人にどのように仕えたか、お忘れですか」と釘をさされて、呂布の首をはねました。
官渡の戦い
曹操は袁紹討伐にのりだします。相手は数倍の国力をもっています。曹操は袁紹陣営が内部分裂を起すのを見越して、戦いをいどみ、勝利して、中国中央北部と北部を支配下におさめました。
このとき、一時的に曹操配下に加わっていた関羽は、曹操に恩を返す働きをしたので、また劉備のもとに戻っていきました。
荊州攻略
曹操は大陸支配を確実にするため、中国の中部・中南部を支配する荊州攻略に動き出します。ちょうど荊州の主劉表が亡くなった所へ攻め込み、荊州を引き継いだばかりの劉琮は曹操に降伏しました。
赤壁の戦い
荊州を手に入れた曹操は呉攻略に乗り出し、荊州軍もあわせ百万と号する大軍で呉に押し寄せました。この戦いに勝利すれば曹操の大陸支配は決定的なものになります。
呉では主戦論と降伏論に真っ二つになり論戦が行われていましたが、諸葛亮の説得と周瑜の決断により開戦と決しました。呉はかき集めても7万の兵力です。
周瑜は長江を利用した火計により曹操を打ち破り、この地の呉の支配を確立しました。
この赤壁が『三国志』の1つのクライマックスです。
五丈原の戦い
諸葛亮は6度目の北伐をしました。蜀軍10万に対し、迎え撃つ魏軍は30万でそれを率いていたのが司馬懿です。この戦いは持久戦になり、諸葛亮は何度も司馬懿を挑発しましたが、挑発は失敗しました。このとき諸葛亮は病に冒されていて、なんとか自分が死ぬ前に勝利を収めようとしましたが、とうとう諸葛亮は戦いの最中に死んでしまいました。これを期に魏軍は一気に進攻しましたが、蜀の姜維たちの偽装工作によって、諸葛亮がまだ生きているようにみせかけ、魏軍を撤退させました。このことから「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の語が生まれました。
五丈原の戦いで諸葛亮が死んだことによって、『三国志』は実質的に終わったといえます。この後は魏・呉・蜀三国とも、それぞれ滅びの道をたどっていきます。
まぁ確かに三国が鼎立してからは地味、というか無難な戦いが多いだけにそういう意見も分かります。国の形が決まって攻める・攻められる地点がある程度決まっちゃったもんだから、相手も予想済みなのでどうしたって膠着しちゃいます。有名な赤壁の戦いのような生きるか死ぬかのような戦いがないです。正史と演義の差はあれ、どっちも概ね後半は地味です。演義はそこを孔明を超人にすることで何とか盛り上げてます。
三国志に限らず歴史物の醍醐味は英傑が何人も出てくることでしょうか。それだけで読むほうはワクワクします。三国志の流れはその友人AだかBだかにでも聞くか自分で調べてください。書くの面倒なので。
三国鼎立以前は三国志ではない? そりゃ屁理屈。群雄割拠してそれぞれの野望、志、生き方、挫折などなど人間ドラマが織り込まれてんのよ。
おおざっぱなあらすじは。漢朝末期、中国の統治機構は乱れ各地で反乱や領地争いが続き国は疲弊。それに乗じて我こそは天下を掌握しようと大勢の人々がしのぎを削り、中でも勢力を伸ばしたのが、魏の曹操と呉の孫一族と蜀の劉備、その国々が中華統一に奔走して結局統一を果たしたのは魏、それも直ぐに家臣の乗っ取りで晋という国にとって代わられたってお話。
いろんな意見があると思いますが、黄巾の乱から始まる(後漢の時代)ものが多いと思います。つまり、群雄割拠になるいきさつから物語が始まるわけです。最後は蜀滅亡で終わるものもあれば、三国時代から晋建国で終わるものなどいろいろです。三国志の魅力はなんといっても、「人間ドラマ」ですね。自分たちの野望、生き抜く執念、熱い友情、騙しあいの駆け引き、猛る戦場での果たし合いなどなど…数え切れません!
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