2012年3月20日火曜日

三国志の人物の中で 最も外交戦略の上手かった人物は誰になるでしょうか、 また最...

三国志の人物の中で

最も外交戦略の上手かった人物は誰になるでしょうか、

また最高だと思う外交官も挙げてみて下さい







外交戦略も外交官としても魯粛ですね。誰よりも荊州の重要性とそこを

維持することの難しさを理解し、真っ先に劉備との同盟締結を行うと言う

先見の明、諸葛亮はここにおいては脇役に過ぎず、呉蜀同盟は魯粛主

導によって行われています。



また劉備達が益州を取った後に荊州を返さない時は、関羽と直接交渉

を行い、蜀側の不義理を激しく非難、関羽は一言も返せずに後に荊州

は割譲されて呉蜀で分けあっています。



今の日本のように弱腰外交するだけでなく、いざと言う時には相手の非を

激しく糾弾し、それでいて最後は丸く収める硬軟の使い分けは見事と言う

しかありません。



考えてみれば三国鼎立を一番明確に最初に表していたのは魯粛ですし、

劉備達の蜀乗っ取りも呉側が黙殺していなければ水泡と帰していた可能

性がある訳です。



そう言う意味では蜀の命運を握っていたのは魯粛、と言っても過言では

ないぐらいの人物と言えるのではないでしょうか。彼がいなければ蜀と言

う国は無かったかもしれませんし、もっと早い時期に各個撃破されていた

と思います。



追記

最大の戦果は劉備陣営であって諸葛亮ではありません。劉備が荊州を

攻略し益州を攻略する間、諸葛亮が外交官として腕を振るった形跡は

見られません。何もしていないのに荊州が取れた訳では勿論ありません

が、そこで具体的な名前が出てくるのは孫権、魯粛、劉備、関羽です。

具体的な名前が無いのにそれが全て諸葛亮の成果に帰結する、などと

言うことはありえない話です。



更に言うならばその益州を取った後、怒る孫権をなだめていたのは魯粛

であり、彼がいたからこそある意味では荊州の安全が保証されていたと

言えるのは、彼の死後に荊州失陥していることからも明らかです。



彼が劉備達を庇った発言から見ても、劉備達が鼎の一つとなり、魏への

対抗勢力になることを期待していたことが分かります。但しそれが行き過

ぎないよう荊州を割譲させたり、呉と蜀のバランスを考えながら彼は尽力

しています。劉備達がどれだけ領土広げたとしても、それは魯粛の理解、

援助あったればこそですよ。








私は最も外交戦略に長けていたのは士燮だと思います。ただ彼の場合は領土拡大の意思より領土保全の意思が非常に強かったのが魯粛などとは異なります。交州の安定の為に曹操と孫権の間を泳ぎ、孫権の江東支配が決定的になると今度はいかに攻め込まれる口実を無くすかに知恵を絞る。あっさりと長男を人質に出して恭順の意志を示す一方で、士燮しか持ち得ない交州-益州のルートで益州南部を呉の味方に付けて自らの力も示す。何とも賢い外交です。

何だかんだで赤壁から18年も(ていうか士燮が死ぬまで)交州の独立を保ち続けましたからね。その後あっさり攻め滅ぼされたとこを見ると軍事的には交州は大したことなかったんでしょう。巧みな外交と巨大な経済力で生き延びたんでしょうね。



外交官は費禕や宗預、張紘や趙咨など呉蜀の人材が思い浮かびます。最高は決められませんね。ある意味最高なのは張温。蜀に出向いて帰ってきたら、すっかり蜀色に染まりきってやがる。蜀万歳と称えまくり。蜀の人たちに褒められてのぼせ上がっちゃったのかな。挙句孫権に殺されるし。







どう考えても諸葛亮でしょう。

自分を高く売りつけ、他者を利用し、最小限の損耗で、最大限の効果を得る。

「赤壁」以降で最大の戦果を得たのは誰でしょう?最大の功績、という意味ではありません。



赤壁は呉の活躍によるもので、劉備は何もしていないのにうまうまと荊州を取ったとか言われたりもしますが、「何にもしていないのに土地が手に入った」ことに、よくよく活目せねばなりません。



これほどの外交を成立させたのは彼以外にありません。

魯粛の能力と胆力は疑うべくもありませんが、ビフォーとアフターの費用効果が最も大きかったという意味で、諸葛亮になります。







私もkumayamaoさんの「魯粛」に、

外交官も含めて全面的に同意します。



でも、生まれる時代が早すぎた感もあります。

勝手なイメージでお叱りを受けること覚悟の上、

「魯粛」となぜか「周恩来」がダブるのは私の浅学のせい?

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