2012年3月9日金曜日

三国志 孫権について

三国志 孫権について

孫権が晩年 狂乱したっていうのは具体的にどういかれたことをしたんですか?







狂乱というより猜疑心が強くなり、

頑固で周囲からの諫言を聞かなくなったと言うべきでしょうか。



まずは後継者争いです。

孫権は、長男の孫登を後継者に決めて、早くから英才教育を施していました。

その甲斐あって、孫登は優秀で立派な人物に育ちます。

ところが、この孫登が33歳で病死してしまいます。

こうして、跡目争いの幕が切って落とされたのでした。



その後、三男「孫和」を皇太子に立てますが、

四男魯王「孫覇」についた娘(全公主)に誑かされて、

魯王「孫覇」を支持してしまいます。

孫権は娘を溺愛し、彼女の言うことは何でも聞いてしまう駄目親父となります。



気骨のある群臣たちは、みんな三男支持に回りました。

「長幼のケジメ」もさりながら、客観的に見て三男の方が優秀だったんでしょう。

しかし、孫権は激怒します。

事もあろうに、この忠臣たちを片端から殺したり島流しにしてしまうのです。

張昭や顧雍の子孫たちは、みんな「ヴェトナム送り」になりました。

あの名将・陸遜は、毎日のように孫権の使者にネチネチと詰問されて、

心労のあまり憤死してしまいます。

(江南の名士「陸家」の台頭を恐れたから謀殺した説も有り)

それ以外にも、粛清された忠臣の数は、数百人にも及びました。

呉が誇る人材層は、この詰まらない争いによって壊滅状態になりました。

(二宮の変)



結果的に孫権は両派を「喧嘩両成敗」にします。

すなわち、三男と四男とその取り巻きをみんな左遷させるか殺すかしたのです。

孫和は廃立させられ、(孫権死後、自殺)、孫覇も自殺させられ、

結局末息子「孫亮」が皇太子に立てられ、

数年後に孫権は71歳で病没します(252年)。

この騒動は、孫権の優柔不断が原因です。



晩年の孫権は、「呂壱」という文官を重用し、

その言うことを全部真に受けてしまいます。

この男は私利私欲のために法を捻じ曲げたり、

賄賂を取ったり、ライバルに冤罪を着せたりする小人物でしたが、

おべんちゃらが得意で、孫権は、耳ざわりの良いお世辞によって騙されてしまいます。

そのため多くの忠臣が無実の罪を着せられ、

あるいは民衆が無益な重税や労役に苦しみます。

孫権は、

顧雍や諸葛瑾といった忠臣たちの必死の諫言によってようやく真実に気づき、

呂壱を処刑します。この判断は遅きに逸しますがまだ、まともな方です。



『正史』の作者・陳寿は、この孫権の暴挙をもとに、

「こいつは結局、暗君だったのだ!」と決め付けています。



もともと孫権は感情の濃度が異常に濃い人物で、

暴君になりうる素質を持った人物だったことがいろいろな逸話からも垣間見えます。

虎狩りに嵌ったり、

部下たちに無理やり酒を飲ませたりと、かなり暴君の素質が頭を出しています。



元々疑い深い性格はあったらしいですが、

幼くして父親と兄を相次いで非業の死を遂げ、

君主となるべく心構えの出来ぬまに担ぎ上げられます。

江南はもともと大豪族の寄り合い所帯ですし、

若き日の孫権は、彼らに「擁立してもらった」という負い目があったので、

周囲に気を遣っていろいろと「我慢」していたのだと思います。

こうして溜まったストレスを、深酒や虎狩りで晴らしていたというのもあるのでしょう。



最終決定権はあるにせよ、自分より社会経験の豊富な重臣たちの合議もあり、

優柔不断さを脱却できなかったというのもあるのではないでしょうか。



また、「老害」というのもあるでしょう。

人間は、歳を取ると精神の弾力が失われ、自制心が衰え、

思考が硬直化する傾向があります。

特に孫権より若い臣下ばかりになると、

己の過去の成功体験を絶対視してしまい、

「俺に逆らう若い奴らは、みんなアホウなのだ!」

という思い込みに容易に捉われてしまいます。

だから、彼に逆らった人々を平気で殺すような暴挙をしたのでしょう。

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