2012年3月23日金曜日

三国志についての質問です。

三国志についての質問です。

蜀軍の武将・劉備の妻の名前は何と言うのでしょうか?

また劉備には過去、敵の軍に両想いの人間がいたという話は本当ですか?

解答よろしくお願い致します。







分かる限りで劉備の妻は4人います。ただ女性の名(いみな)はめったに書かれることがなく、特別なエピソードでもない限り、その姓しか伝わりません。劉備の妻でフルネームが伝わっている人はいません。以下、娶った順に簡単な紹介を。



1、麋夫人

徐州東海郡出身。麋竺の妹で、劉備が徐州を呂布に乗っ取られた時、麋竺が絶対に見捨てないという誓の意味で差し出した。

演義では長坂の戦いで井戸に身を投げるも、史実ではいつ死んだかも不明。



2、甘夫人

豫州沛国出身。劉備が曹操を頼り、小沛に移ったころに娶った。嫡子劉禅を生む。長坂の戦いでは劉禅もろとも劉備に見捨てられるも、趙雲に救われる。その後まもなく死去。



3、孫夫人

揚州呉郡出身。劉備と孫権の同盟強化のための政略結婚。やがて劉備と孫権の仲が悪くなると、別荘を築いて別居。最期は呉に帰国してしまう。



4、呉夫人

エン州陳留郡出身。初めは劉璋の兄の妻だったが、劉備が法正の勧めで妻に迎える。甘夫人も麋夫人も既に死んでおり、劉備の正妻として王后、皇后に立てられ、劉禅の義母となる。245年に死去。



※劉禅の弟の劉理と劉永の母は不明で、もう一人か二人妻がいた可能性もあります。





次に劉備と両想いだった人物ですが、おそらく袁紹、曹操に仕えた牽招(けんしょう)だと思われます。太平御覧という史書には、

「牽招と劉備は幼い頃からともに成長し、互いに義兄弟の契りを結んだ。ともに荒波を越えて、天下に羽ばたこうという志を持っていたが、思いがけず牽招は曹操の配下となり、劉備は蜀の皇帝となった。二人の友情が並々ならぬものであったため、牽招は魏の人にあらぬ疑いをかけられぬよう、隠忍自重したのであった」



牽招の息子の牽弘が蜀を滅ぼした武将の一人というのは、なんとも皮肉ですね。

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