三国志演義では、東呉から劉備と一緒に荊州へ来た孫夫人・・・
そのあと、孫夫人はまったく登場しませんが、
ちゃんと劉備がご臨終になるまで
伴侶としてつき従ったんですか?
それと、レッドクリフ(PartⅠ)では
最初、劉備を嫌っていましたが、
演義では、
はじめから劉備を受け入れていましたよね?
??????????
正史でいうと、
実在の人物とはされますが、彼女に関する記述はほとんどありません。
「三国志」蜀書法正伝には、
「北に曹操、南に孫権、更に内にあっては孫夫人の脅威があり、
その中で我が君が志を遂げたのは、ひとえに法孝直の功績である」
との諸葛亮の弁明が記されています。
めずらしく、レッドクリフに描かれていた男勝りは事実だったようで、
父や兄弟たちに似て、
目じりが吊りあがった威厳のある顔立ちをしていたといわれます。
気が強く、薙刀の名手、常に腰に弓を装備していたことから
「弓腰姫」と呼ばれていたとされます。
孫夫人の侍女百名ほどは、みな武装して侍立しており、
劉備は奥に入るとき常にびくびくしていたと記載されています。
(新婚初夜の日、武装した侍女達を見た劉備は、
仰天して寝所から逃げ出したという説もあります。)
「三国志」蜀書穆皇后伝によると、
劉備が益州を平定した後に、孫夫人は呉に帰国したとされます。
「三国志」蜀書穆皇后伝の注に引く『漢晋春秋』によれば、
孫夫人は劉禅をつれて呉に帰ろうとしましたが、
諸葛亮は趙雲に命じて長江を封鎖し、劉禅を奪還したとされます。
このため、劉備と孫夫人の仲は以前にも増して険悪になり、
孫夫人は公安に新たな居城を築かせて住まいし、
別居状態になったといいます。
呉へ帰国後の孫夫人の動向は、不明です。
演義でいうと、』『漢晋春秋』などに基づいた記述は以下のとおり。
209年に劉備との政略結婚の話の時に初めて孫夫人の名前が出てきます。
周瑜の発案で婚姻政策により劉備を呼び寄せ、
国内に事実上拘留して骨抜きにさせるという計略でしたが、
諸葛亮の策のより、劉備は孫夫人と共に荊州へ脱出する事に成功します。
嫁ぐなら、天下の英雄にと願っていたとされ、
夫となる劉備とは年が30歳近くも違っていましたが、
両人の仲は良好なものであったとされます。
孫夫人は呉から数多くの官吏兵士を連れてきていましたが、
この者たちはみな素行が悪く、よく不法行為を働いたといいます。
これに劉備は頭を悩ませ、劉家家中の仕事であるにもかかわらず、
厳格慎重な趙雲ならばと、
特例として仕切ることを頼んだという記述も残っています。
212年頃に劉備と兄・孫権との関係が悪化します。
そこで、張昭と魯粛の策で孫夫人の母が危篤との偽報を聞かせ、
阿斗(後の劉禅)を引き連れて帰国させようとします。
しかし、それを発見した趙雲と張飛が阿斗を奪い返したので、
彼女はそのまま、母国に帰国することになります。
阿斗は、趙雲に二度救出されたことになります。
これらの事件は建安20年(215年)頃、
孫権と劉備の荊州の領有権争いで、
一気に緊張が高まったときのこととされていますが、
当時、趙雲・張飛は、蜀へ移った後であり荊州にはおらず、
趙雲・張飛が取り返したというのはありえない話です。
それらのことから、
連れ去り未遂事件は演義お得意の逸話の域を出ず、
創作話であろうとされています。
帰国した孫夫人はその後再婚せず、
222年に夷陵の戦いで劉備が戦死したという誤報を聞き、
絶望して長江へ身を投げたという設定になっています。
「孫尚香」との呼び名が一般に広まっていますが、
これは京劇に登場させるにあたって、
名がないと不都合であるためつけられた創作の名です。
演義では「孫仁」という名で登場します。
正史では氏名不詳な孫夫人ですね
私は最後まで付き従ったとは思えません。
小説や漫画などでは概ね劉備の入蜀あたりで呉に帰ってますし。
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