三国志の呉の国は、孫権時代のあとどういった運命をたどるんですか。
ちょっと詳しめに教えてもらえないですか。是非お願いします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/呉_%28三国%29
ここに一番詳しいです。(以下引用)
孫亮・孫休
252年に孫権は死去し、10歳で孫亮が皇帝となった。10歳児に政治が理解できるはずも無く、太傅の諸葛恪が政権を握る。諸葛恪は孫権の死後を狙って侵攻してきた魏軍に大勝して声望を得るが、翌年の魏への侵攻は失敗に終わる。これで落ちた声望を回復するために国内の豪族勢力を押さえ込んで中央集権を志すが、これに不満を持った皇族の孫峻によるクーデターが起き、諸葛恪は殺された。
諸葛格の死後、代わって孫峻が丞相となり、政権を握る。孫峻は民衆の苦しみに関心を払わず、自分の権勢と奢侈のためだけに権力を振り回した。不満を持った者たちは孫峻の暗殺を謀るが失敗した。結局孫峻は256年に唐突に(諸葛恪に殴られる夢を見て、恐ろしさのあまり)死去し、その権力はいとこの孫綝(そんちん、綝は糸偏に林)に引き継がれる。
孫綝は反対勢力を潰して政権を握るが、この頃になると孫亮にも自覚が芽生え始め、自らの政治を行おうと考え始める。258年、魏で諸葛誕の反乱が起きる。これに孫綝は介入するが失敗に終わり、孫綝の影響力が低下したことを見た孫亮は孫綝の排除を図るが、逆に孫綝により廃位され、孫権の六男・孫休が代わりに擁立された。
孫休は即位すると巧みに孫綝への反感を覆い隠して孫亮のように廃位されることを避け、孫綝が油断したところで逆クーデターを起こして孫綝を誅殺した。親政を始めた孫休は五経博士の設置、農政・治水事業、汚職の追及など立て続けに改革を打ち出し、衰退に向かっていた呉を一時的に食い止めた。しかしその後の孫休は学問とキジ狩りに没頭するようになり、政治は重臣の濮陽興と張布に任せきりとなった。
263年、蜀が魏の司馬昭が派遣した軍により蜀都・成都が陥落。遂に三国の一翼が崩れた。同時に呉では交州が離反した。魏の蜀侵攻に対して呉からも兵を送り、蜀の救援、それがだめなら蜀の領土を少しでも奪うことを目指したが、いずれも失敗し、強大化した魏(司馬氏政権)とまともに国境を接することになった。
[編集]孫晧
翌年に孫休が死去し、孫休の子供はまだ幼い事から孫権の三男で廃太子であった孫和の子の孫晧が擁立された。孫晧は聡明な文武両道の人物と謳われており、擁立した濮陽興と張布の期待もそこにかかっていた。しかしこれは呉にとって最悪の決定であった。
まず孫晧がやったことは閣僚の一新と父・孫和に皇帝号を追号することである。これは何の問題も無い。しかしその後、孫休の妻と息子たちを皆殺しにし、武昌への遷都を行ってそこに壮麗な宮殿を建て、その翌年に再び建業へと都を戻すと言うことを行った。
武昌への遷都を行った265年には司馬炎が魏皇帝曹奐より禅譲を受けて晋を建てた。呉にとっては幸いなことに発足直後の晋ではすぐに遠征軍を繰り出すことは出来ず、呉は孫晧の政治で腐敗はしていたが、まだしばらくの平和を得た。
この頃になると国内では孫晧に対する反乱も起きるようになるが、孫晧は省みず後宮に数千と言う美女を集め、逆らう家臣は拷問し殺していた。この中で陸遜の息子の陸抗が呉の防衛を一人で支えていたが、孫晧が敵将との内通を疑い彼を都に呼び戻してしまう。その後273年に陸抗が死に、もはや呉には国を守る人間はいなくなった。
そして279年、晋は30万と言う大軍を繰り出して呉へ侵攻してきた。呉の兵士たちは残虐な孫晧を見切り戦わずして晋に下るものも多く、翌280年3月に建業を包囲されて孫晧は降伏、呉は滅亡した。
呉(222~280)
孫権(182~252)
字は仲謀。呉の初代大皇帝。廟号は太祖。在位222~252。呉郡富春の人。孫堅の次男。母は呉夫人。兄・孫策の跡を継ぎ、孫氏閥を率いた。赤壁の戦いで、劉備と連合して曹操を破り、江南の一大勢力となった。その後、魏と同盟して劉備より荊州を奪取。魏の文帝(曹丕)より呉王に封じられた。後、魏と断絶して独立し、黄初三年(222)自ら呉王の位について、黄武と改元した。黄龍元年(229)、皇帝として即位した。内政では奉邑制を布き、外には山越を討って内地化した。皇太子・孫登が没すると、孫和を後継者としたが、二宮の変が起こって、国が乱れた。孫亮を皇太子として決着。諸葛恪・滕胤らに後事を託して崩じた。
孫亮(242~260)
字は子明。呉の二代会稽王。廃帝、幼帝。在位252~258。孫権の末子。赤烏十三年(250)、太子に立てられた。太元二年(252)、孫権が没すると、位を継ぎ、諸葛恪の輔政を受けた。建興二年(253)、孫峻が諸葛恪を殿中で待ち伏せして殺すと、孫峻を丞相とした。太平元年(256)、孫峻が病没すると、孫峻の従弟の孫綝を大将軍・中外諸軍事とした。二年(257)、親政をはじめた。三年(258)、暴悪をほしいままにする孫綝を誅殺しようとしたが、事敗れて廃位され、会稽王に落とされた。永安三年(260)、孫亮が復位するとの流言が会稽郡に流れ、爵位を候官侯に落とされ、封地におもむく途中に自殺した。一説に毒殺されたともいう。
孫休(?~264)
字は子烈。呉の三代景帝。在位258~264。孫権の六男。太元二年(252)、琅邪王に封ぜられ、虎林に住んだ。孫権が没し、孫亮が継ぐと、丹楊に移された。郡守の李衡にたびたび圧迫を受けたので、他の郡に移るよう願い出て会稽に移った。太平三年(258)、孫綝が孫亮を廃位すると、孫休を迎えて帝位につけた。孫綝が謀反を企んでいるのを察知し、張布と諮って孫綝を殿中で捕らえさせ処刑した。濮陽興と張布に政務を委ね、自らは古典の研究や雉狩りを楽しんだ。蜀が魏に降ると、巴東に兵を出したが失敗して撤退し、交阯郡で叛乱が起こるなど、国力は衰微に向かった。
孫晧(242~284)
字は元宗。呉の四代末帝。在位264~280。孫和の子。永安元年(258)、烏程侯に封ぜられた。七年(264)、景帝が亡くなると、万彧が孫晧の英明であることを濮陽興と張布の耳に入れ、朱太后に説いたので、このため迎えられて帝位についた。元興と改元した。帝位につくと暴驕で酒色を好んだ。濮陽興と張布は讒言を受けてまもなく誅殺された。甘露元年(265)、朱太后を殺し、武昌に遷都した。宝鼎元年(266)、また建業に都を戻した。天紀四年(280)、晋軍が六路に別れて呉を攻めると、いたるところで呉軍は敗れ、ついに孫晧は自らを縛して降伏した。帰命侯の号を賜った。洛陽で没し、河南に葬られた。
0 件のコメント:
コメントを投稿