2012年3月21日水曜日

三国志が好きな友達がいるんですが 前に…「800人の軍団で10万人の軍団を倒した人...

三国志が好きな友達がいるんですが



前に…「800人の軍団で10万人の軍団を倒した人がいる」



見たことを語られたんですが。

本当に実話なんですか???




中国の話しだから、信憑性が薄そうだし。









スパルタ(?)の300人で1万人を倒したって

話しですらにわかに信じ難いんですが…。









張遼が孫権の大軍に奇襲かけて引かせた話ですね。

エピソード自体は本当に歴史上あったそうですが、「800人で10万を倒した」という部分は創作です。『三国志・魏志張遼伝』を見ると、『張遼は800人を率いで侵攻してきた孫権軍の先鋒部隊を襲いこれを撃退し、その後、10万もの孫権軍は合肥を10日あまり包囲し続けたが落とすことができない上、疫病が軍中に蔓延したためやむなく撤退した。撤退したことろを張遼が軍を率いで追撃し、孫権を追い詰めたが寸でのところで取り逃がした』(意訳)とだけ記しています。800人で真正面から攻撃し10万もの大軍を撃退したとは一言も書いていません。

この先鋒部隊はいったいどのくらいの人数かは記されていませんが、、恐らく万を満たないでしょうし、襲撃とだけ書いているので殲滅ではないようです。張遼本人は非常に優秀な将ですし、地の利があれば800人でも先鋒部隊の出鼻を挫くことは造作もないでしょう。それでも自軍の数倍を当たるのですから凄すぎるの一言に尽きると思います。



スパルタを題材にしたあの映画は、絶対にありえないのです。300人が真正面から1万の敵の中に突っ込むなんて・・・



【補足】



張飛の話ですね。長坂での活躍のシーンの・・・。こちらも実際の出来事ですが、『演義』で誇張されたものですね。



『三国志・蜀志・張飛伝』では「先主聞曹公卒至、棄妻子走、使飛将二十騎拒後。飛拠水断橋、瞋目横矛曰:身是張益徳也、可来共決死!敵皆無敢近者、故遂得免。」と書いてあります。

これを日本語訳すると、『劉備は曹操が追って来たのを知り、妻子を置き去りにして慌てて逃げた。この時殿を張飛に頼んだ。張飛は二十騎ほどの兵を率いで川にかかる橋を塞ぐように守り、(迫りくる曹操軍に対し)矛を振り、「俺が張益徳だ。死にたいやつはかかって来い」と言った。敵は皆(張飛に)近づくことが出来ないので、(劉備は)難を逃れた』、ということになります。



歴史書の記述はこれだけで、張飛は橋の上で雄叫びをあげたかどうかはわかりません。また、敵がびびって逃げたかどうかもわかりません。まぁ、『演義』の創作の可能性は大きいですが。



以上








スパルタって300人対200万人で最後はスパルタが全滅しておわったと思うんだけど







『三国志 魏書張遼伝』に出てくる話です。

西暦215年、呉の孫権が十万の大軍で魏の合肥というところを攻めました。

この時、合肥を守っていたのが張遼、李典、楽進といった魏の名将で兵数は七千余だったといいます。

多勢に無勢で守備側が不利な中、張遼が決死隊八百人を募って早朝に奇襲を行い、十万の呉軍を大破した、とされています。

この奇襲攻撃の後、呉軍は更に十余日、攻城を続けましたが、結局合肥は陥落せず、孫権は引き揚げました。

後に魏の文帝(曹丕)が「合肥之役,(張)遼、(李)典以歩卒八百,破賊十万,自古用兵,未之有也(合肥の役において張遼と李典は八百の歩兵で賊十万を破った。古今の用兵においてこのような快挙は見たことがない」と賞しています。

やられた側の呉の記録である『三国志 呉書』を見ると、『孫権伝』に張遼等に急襲されてあわてて逃げる様子が描かれているのを初め、『陳武伝』『凌统伝』『潘璋伝』『賀斉伝』等に敗走の記述が見られます。

『資治通鑑』という宋代に編纂された歴史書にも、この内容は書かれています。

十万を八百が破った、というのは確かに誇張もあると思いますが、呉の大軍に対して魏の張遼が少数精鋭で奇襲を行い勝利した、という事実はあったと思われます。

(当時の出兵では十万と称しても実際に十万いることはまずないです。

また、あくまでも奇襲なので、実際に戦闘があったのは孫権の本陣付近で、呉の全軍が戦闘に加わったわけではないと思われます。

それらを差し引いても、少数で城を守り抜いたことと、奇襲を成功させたことは評するに値するでしょうね)







倒したというよりは蹴散らしたという感じかな。張遼の話でしょう。



張遼ら7000人が守る合肥に孫権が10万(10万というのは誇張かもしれませんが)が攻め寄せた。そこに曹操から命令書が届いて「孫権が来たら張遼、李典は打って出て戦え。楽進は守れ。」と書いてあった。そこで張遼は800人の決死隊を募って攻め寄せた孫権軍に奇襲をかけた。油断していた孫権軍は散々に蹴散らされ、以降戦意が上がらず10日ほどで包囲を解いて撤退。張遼はさらに敵の撤退時にも奇襲をかけ孫権を捕まえる一歩手前まで追い詰めた。



という感じだったと思います。張遼が凄いというよりも敵兵が少ないと侮って油断していた孫権が悪かったんだろうと思います。孫権は戦下手な君主でしたから。これ以外にも結構奇襲を喰らって負けています。

いささか誇張された表現があるにしても、正史に詳しく載っているので嘘ではないと思います。あの当時の歴史家、といか三国志の筆者である陳寿は現代の中国人とは違い嘘を書くことを徹底的に嫌がっています。当時の権力者にも都合の悪い事実もそれとなく書いてるぐらいです。







誇張された表現です。

確かに出てくる武将には万夫不動=一人で万人を相手にする、八百八屍将軍=一人で八百人相手にする、一騎当千=一人で千人相手にできる。などとその強さを畏敬の念を込めて呼称する場合がありますが、実際の人間では無理だと思います。古来、日本もそうですが実数の十倍以上の数字で誇張する習慣があったために、現在では考えにくい数字が特に古代中国史にはでてきます。

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