三国志について!
曹操→曹ヒ
孫堅→孫策、孫権
劉備→劉禅
なぜ劉備の息子だけがボンクラなんでしょうか?
劉禅は、先の回答者さんも指摘されているように、
戦場に出たこともなく、甘やかされて温室栽培で育ちました。
諸葛亮存命中は、
諸葛亮が決して得意ではない「武」も、
一流と評価される「治」も、
おんぶに抱っこだったわけですし、
その後も周りの大人が何でもやってくれます。
彼が不幸だったのは、
若いころからの英才教育が成される前に、
皇帝の地位に就いたからではないでしょうか。
幼いころから、父親の愛情が足りなかったのか、
度々戦火の中に置き去りにされ、
母親は戦場で無残に亡くなり、
義母(孫夫人)には拉致されそうになり、
まさに悲惨な幼少期を過ごしました。
(趙雲に2度も助けられたことになりますね。)
思うに、彼が皇帝に就いてからナンダカンダ言いながら、
約40年間蜀を長らせられることができたのは、
彼が、その悲惨な体験で自然に備わった
「危機管理能力」みたいなものによるのではないでしょうか。
それが慢心を生み、
姜維の無理な北伐を容認し、
黄皓の専横を許してしまったのでしょうから、
蜀を滅ぼした元凶は、劉禅であることには変わりありませんが・・。
良い評価は残念ながら望むべくもありませんが、
ボンクラではなく、
極めて凡庸な皇帝といえるのではないでしょうか。
魏側の事情もあったでしょうが、
2代目を注いで40年、
諸葛亮が陣没後25年、よく蜀が持ったものだ、と思わざるをえません。
曹丕の場合、まだ偉大な父「曹操」の遺産が生きています。
兄弟間の熾烈な跡目争いを勝ち抜いて、
性格的にも、劉禅や孫権らに較べて、明らかに皇帝向きでしょう。
孫権も、可哀相ちゃあ可哀相です。
父親と兄が相次いで悲劇的な最後をとげ、
心構えのできぬまま皇帝に祭り上げられ、
曹操や劉備など、自分の父親世代の人物と、
戦い続けなければなりませんでした。
ライバル2人が相次いで亡くなり、
危険視していた諸葛亮もいなくなった、
そこまでは神経も張っていたでしょうし、
江南はもともと大豪族の寄り合い所帯ですし、
若き日の孫権は、彼らに「擁立してもらった」という負い目があったので、
周囲に気を遣っていろいろと「我慢」していたのだと思います。
こうして溜まったストレスを、
深酒や虎狩りで晴らしていたというのもあるのでしょう。
また父親、兄世代の優秀な臣下に支えられながら、
豪族の集まりである呉をなんとかまとめる事が出来ていました。
最終決定権はあるにせよ、
自分より社会経験の豊富な重臣たちの合議もあり、
優柔不断さを脱却できなかったというのもあるのではないでしょうか。
その緊張感が最後まで続くわけはなく、
晩節は老害といっていい失政と、
醜い家督争いに明け暮れました。
それでも、23年間治世を取り続け、
呉を永続させたことは評価してもいいかと思います。
劉禅の肩を持つわけではありませんが、
曹丕(20歳差)や孫権(25歳差)(もっといえば孫策)ら、
父親世代と同列に並べるから、
残念な評価を下されなければならないので、
これも先の回答者さんが述べておられますが、
較べるとすれば、
同時期の
「曹叡(206年)」
「孫皓(242年)」これまたちょっと年代が違いますが、
「孫亮」「孫休」では貫禄負けです。
彼らと「劉禅(207年)」とが妥当ではないでしょうか。
曹叡は、
偉大な祖父曹操と、
これまた平均以上の評価を得る父親曹丕の、
影に怯え、プレッシャーに押しつぶされそうです。
また、司馬一族による3代に渡る、
壮大な魏王朝乗っ取り計画の犠牲になった感があります。
魏以前の古代中国の王朝や、それ以後の王朝を見ても、
3代(2代といってもいい)続けて秀抜な皇帝が出た例は皆無に等しく、
漢の武帝のような中興の祖が出ないうちに、
王朝の衰退を招いたのは曹叡だけではありません。
諸葛亮VS司馬懿 の5回に及ぶ小競り合い(魏から見れば)
が終わるまでは、司馬懿 という狐がいなかったため、
「鬼のいぬまのなんとか」だったでしょうが、
終われば司馬懿の傀儡だというのは誰の目にも明らかで、
その後、5年で亡くなるのも地味な印象しか残りません。
呉は、2代(孫亮)は孫権の長期政権のあおりで幼帝、
3代(孫休)は孫亮暗殺の噂がつきまとい、惰弱で政治への関心が薄いと、
ある程度呉が平穏だったこともあるのでしょうか「平和ボケ」の症状を示し、
4代孫皓が暴君(国政に飽きた?)であったため滅亡を迎えます。
劉禅は(彼なりに)、国力の明らかに劣る「蜀」をガンバって支えようとしましたが、
それは叶わず、65歳のとりあえず長寿をまっとうしました。
曹叡は、これからくるであろう司馬一族の世をひしひしと感じながら、
祖父と父が建てた魏の滅亡を見ることなく亡くなります。
孫皓は、その所業に合わず、
祖父(孫権)大伯父(孫策)のような悲惨な死に方をせずすみました。
ご質問の趣旨からは外れますが、誰が一番幸せだったのでしょうか?
劉禅がボンクラだとおっしゃいますが、ボンクラな人物が滅亡の危機にさらされ続けた小国を40年も保つ事ができるでしょうか?
少なくとも私はそうは思いませんし、なかなかの良君だったと考えていますよ。
劉禅に戦場経験がないのは間違いなく(幼児期に戦場で死にかけた事ならありますが)、武将としての資質は未知数で凡庸だった可能性もありますが、物事ついた時にはすでに父の側に諸葛亮や麋竺、伊籍など優秀な官僚・学者が多数存在し、帝王学というかある程度の教育はそれなりに施されていたと思われます。
父の劉備が死んだ時はまだ数えで17歳で、表舞台(軍事・外交・政治)での実績が何もありませんでしたから、父が不安に思って諸葛亮に遺託したのも無理はありません。
劉禅は良くも悪くも父親に似ています。自分が先頭切って何かするタイプではなく、部下や周囲の人間を信頼し全て任せてしまう度量の大きさのようなものが見受けられます。普通の皇帝ならば、諸葛亮のような全権を握ってしまった家臣は粛清にかかるものです。しかし劉禅にはそれがない。諸葛亮だけでなくその後の蒋エン、費イ、董允らも皆同様です。彼らは粛清の心配をする事なく、思う存分自らの才幹を発揮する事ができました。
この事実だけを見ても、劉禅が皇帝として凡庸(ボンクラ)であった…という説を否定する根拠になり得ます。
宦官の黄皓の台頭を許したのは、それまで堅物に囲まれて一生懸命に国家運営に取り組んできた、バカ正直で真面目な皇帝が知らなかった遊びを色々と教えてくれたからであり、真面目な堅物が遊びを覚えて身を持ち崩すのは現代でも普通にある事です。劉禅がそうだからといって凡庸(ボンクラ)だった根拠にはなりません。
まあ、劉禅凡庸説の最大の根拠は滅亡後のあの逸話でしょうが、そうやって遊びを覚えた人物が蜀の田舎から何もかも桁が違う大都会(洛陽)に出てくれば、そりゃあ楽しいでしょうよ。あの率直な感想は一個人としての劉禅の発言であり、皇帝であった劉禅の発言と捉えるから凡庸に見えるだけです。
劉禅は育ち方が甘やかされてしまい、ああなったのではないでしょうか?
曹ヒも平凡な人物だったようですよ。
孫堅の息子は揃って優秀ですね。
劉禅が本当にボンクラかどうかはさておき(正直私はボンクラだとは思ってませんし、劉禅よりボンクラな皇帝など幾らでもいるので…)、やはり甘やかされて育ってきたんであろうとは思います。自己主張が弱く周りに流されやすい。なぜそうなったかは分かりませんが、元来そういう人間だったんだろうと推測してます。性格って生まれつき持ってる部分もありますしね。
劉禅が本当にボンクラかどうか。同時期に皇帝であった孫権や曹叡と比べてみると良いです。どちらも末期はかなり馬鹿やってます。それこそ国が傾くほどの。劉禅の治世も末期は混乱があったようですが、その治世の大半は比較的安定してた事実も見過ごされがち。諸葛亮や董允、費禕といった能臣の尽力はあったにせよトップの資質もまた大切です。
曹丕は父曹操の供をして、従軍していました。孫策も父孫堅に従い戦陣にあり、孫権も兄孫策に従って16ぐらいで戦に行ってます。劉禅は劉備が50近くになってからの子供です。16ぐらいなら戦に出てもおかしくないとは思いますが、劉禅には戦の経験がありません。戦場での苦労を実地で学んでいないんですよ。年をとってからの子供でしたし、劉理、劉永の弟もさらに幼い…。万が一を考えたら戦場には出せなかったのでしょう。宮中で過保護に育てられたんでしょう、まさに「苦労知らず」のお坊ちゃんだったんです。
遠攻近政のせいでしょう
戦に連れてったら変わったかもしれません
ボンボン育ちなため、野望が無かったと言われていたそうです。今は分かりませんが、中国では人を馬鹿にするときに劉禅の名前を言うそうです。(亜斗)!て言うらしいです。
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