三国志について
蜀って魏・呉より部下に恵まれているように思うんですが、
統一?できなかったのはリーダー(主に劉備)のせいですよね?
曹操も孫権も基より豪族か名門の血縁に連なる一族ですから、初めから血縁・地縁の結びつきなど縁故者の紹介や登用も多く。
どちらも、親族や血縁の一族による理解者や援助者が多くいて、金銭的な援助をするものやその土地を良く知るものや知識人。手足となって動く部下に非常に恵まれています。
一方の劉備は、もともと田舎の食うや食わずの農家の若者
頼りになる親族や、頼みとする伝手も血縁も無く。
それだからこそ、劉備、関羽、張飛と”桃園の誓い”を持ち出してまで盛り上げなければいけなかったほどなのです。
どちらかというと、荒くれ者でソコラの町の暴走族のリーダーのような劉備が、たまたま黄巾賊の討伐で名を知られるようになった程度を手始めに、知り合いになったおじさんからチョット評価されて警備を任された程度だったのです。
それに加えて放浪を繰り返して親族や血縁関係で、側近を固める事も出来なかったものですから、だから、蜀を手に入れても蜀に自分の身内や親族が居るわけではないので、間に入って蜀の土着の豪族や名士たちと仲介の労をとる者がいないから、苦労も多かった事と思います。
もうすこし、劉備の毛並みの良さがあればよかったのでしょうけど、そうなると逆に諸葛亮は劉備に迎えられることも無いかもしれません。
微妙に難しいところですね。
(*´ω`)
そう思うのは、三国演義とゲームの影響です。
もう一度勉強した方がいいですね。
話は逆で、
蜀は魏・呉より面積も地盤も小さく部下にも恵まれていないのですが、リーダー(劉備)の力で建国するまで持っていったと思います。
一般的には「蜀は人材不足」と言われています。劉備亡き後はロクな人材はいなかった、と。私は蒋琬亡き後は慢性的な人材不足だったとは思ってますが、それ以前は人材が枯渇していたとは思ってませんけどね。とてもそうは見えない。蜀を建国しそれを支える人材の掻き集めたのが劉備であり、癖が強く出身地もバラバラの連中を纏めきったのも劉備。曹操には及びませんが、それでも優れたリーダーですよ。
誰のせいで統一出来なかったか、でしたね。曹操のせいです。劉備が基盤を持った頃には天下の3分の2は曹操がかっさらってましたから。それでも諸葛亮や陸遜が存命時は魏も北伐を防ぐのでいっぱいいっぱいだったんですがね。
蜀は慢性的な人材不足だったのです。それを補っていたのが劉備の数少ない取り柄とも言える「人を見る目」でしょう。
鄧芝・馬忠・張嶷・簡雍・李恢・魏延・董允などをはじめ、劉備が抜擢した武将は蜀漢の柱となっている人が多いんですよ。諸葛亮が馬謖を信頼しているのをみて「馬謖は口先だけの男だから重要な任務には就けるな」と忠告したのも劉備の人物眼がうかがえる有名な逸話です。
また蜀の中心人物は関羽・張飛を筆頭に魏延・簡雍・法正・馬超・劉巴・李厳・廖立などなど癖の強い性格の人物が数多く揃っており、それらの連中をまとめ上げたのも劉備の手腕によるところが大きいでしょう。階級や出自で差別せずに有能な人材は重視するし、人材登用面に関しては劉備はよくやっていると思いますよ。
三国統一できなかった原因の一つに劉備が強行した夷陵の戦いがあります。この戦で蜀は多くの有能な将兵を失い激しく国力を低下させてますから。しかし、それ以前に蜀と魏の国力の差は大きく覆しがたいものがあり、戸籍でも魏(430万)に対し蜀(100万)ですから一概に劉備の責任とは言えません。
蜀が人材に恵まれてるって・・・。
それは蜀を正統王朝=正義のヒーローとして祭り上げた三国志演義の影響でしょう。
三国時代の人口については諸説ありますが、大体どの説でも人口比は魏>>>>呉>>蜀といった感じです。
人材層の厚さもほぼこれに比例しています。
三國志演義は蜀・劉備をヒーローとして描く関係上、蜀関係の人物もやや(時にはかなり)誇張気味に描いていますし、逆に魏・呉関係者は過少評価気味に描かれます。
特に過剰演出は諸葛亮。
劉・関・張亡きあとの蜀に人材がいなさ過ぎて、相対的に諸葛亮をオーバーに描かざるを得なかったのでしょう。
むしろ劉備は曹操・孫氏三代に比べ、何の後ろ盾・資産も持たない状況からあそこまでのし上がった、大した人物だというべきです。
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