2012年3月23日金曜日

三国志について・・・ もし、劉備の義兄弟、関羽がケイ州を守りきれたら三国志の歴...

三国志について・・・

もし、劉備の義兄弟、関羽がケイ州を守りきれたら三国志の歴史は変わっていたでしょうか?

関羽が高齢だったことはわかりますが、もしもの話です。







荊州を守りきるには条件があります。

1孫権の婚姻の要請を受諾する。気位の高い関羽が受け入れるのは考えにくいが必須。

2樊を攻めない。

蜀と連動しなければ意味がありません。劉備はどうも動く気配がないので、関羽が独自に判断したのでしょう。

さて、これなら荊州を保持したのでしょうが、関羽らしくないですね。覇気が感じられません。関羽老いたりという感覚に襲われます。逆に魏にも呉にもあなどられて、劉備は孤立して苦しくなりそうです。

やはり関羽は関羽として死んだのであり、必然だったのではないでしょうか。



樊城攻めについて。水攻めで陥落寸前だったと思われてますが、実は水も引いてきて、徐晃の援軍も到着し、関羽はもはや打つ手がなく、後は撤退するのみだったのです。確かに曹操は遷都を考えましたが、曹仁と満寵の粘り強い防戦により、すでに関羽の勝機は去っていました。








守りきれたら、というより、諸葛亮の指示通りに呉と同盟していたら歴史が変わっていたかもしれませんね。当時(蜀建国当初)の北伐の第一目標が長安の奪取だと思いますので、長安を攻めるためには魏の戦力を分散させる必要があります。そのためには、関羽がただ荊州を守っているだけでは意味はなく、関羽軍団が北上する動き(陽動的な意味合い)をみせる必要があります。もし、呉との関係が良好ならば、荊州の後方の安全が確保されるので関羽軍団は安心して北上することができ、結果魏は漢中と荊州二方面に戦力を裂かなければならなくなります。ひょっとすると、呉も合肥あたりを攻めてくれるかもしれませんね(←まあ、呉は情勢によってころころ外交方針を変えるため、あまり信用はできませんが・・・)。魏が関羽軍団に気を取られている隙に、劉備率いる本隊が長安を奪取できれば最高です。

関羽が荊州方面軍司令官になったときはすでにその武名は四海に轟いており、実際曹操は関羽の北上を聞いた時、恐れおののいて遷都を考えた程、関羽の存在を恐れていました。ですので、荊州方面軍司令官として魏呉両方ににらみを効かせるためには、やはり関羽が最適だったと思います。ただ、関羽に欠けていたのは外交力です。もしあの時、「虎の子(関羽の娘)を犬の子(孫権の息子)などにやれるか!」といっていなければ・・・と思ってしまいます。結局、呉との同盟はならず、質問者様もご存知のとおり呂蒙に攻められて敗死してしまうのです。あの場面で、「やっぱり呉と縁組みしたほうがいいのではないですか?」と助言できる人材が関羽配下にいなかったことが悔やまれます。プライドの高い関羽に助言できるのは諸葛亮くらいしかいないのではないでしょうか。諸葛亮が側にいれば親呉政策を貫けたかもしれないですが、彼は先の蜀攻めでの龐統の戦死により張飛、趙雲を伴って成都に向かってしまうために、荊州方面軍は人材不足に陥るわけです。

結局は、龐統さえ死ななければ、荊州にも有能な人材を残せるため、呉との同盟が実現し、漢中の劉備、荊州の関羽による二方面からの北伐を行うことが出来、少なくとも長安の奪取くらいまでは出来たのではないかと思うのです。同時に、長安より西側(涼州、雍州)も支配できれば、蜀の生命線である兵站も確保でき、洛陽攻略がさらに現実味を帯びてきそうです。ただし、蜀の巨大化は呉にとっても避けたいところだと思いますので、ある程度領土を拡大したところで呉との同盟が切られるはずです。そのときまでに、どれだけ蜀の勢力を拡大できるか、関羽を含む老い先短い名将たちを引き継げる人材を確保・育成できるかが肝になってくるでしょう。

長文失礼いたしました。

補足:

hidaka1125さんがおっしゃるように、呉との同盟は難しいかもしれません。ただ、諸葛亮が荊州に残ることで、

①同盟が無理でも引き延ばし外交が出来る。

関羽の取った外交は、完全に呉を敵にまわすことになり、結局背後を攻められてしまった。諸葛亮なら、荊州返還問題をうやむやのままにできたのではないか。←赤壁のときに劉備と孫権の連合軍を形成させた実績があり、諸葛亮の言となれば呉の対応にも変化が生まれてくる可能性がある。

②諸葛亮が荊州の内政を担うことで、兵站面での不安が軽減される。

元々諸葛亮は内政のほうが力を発揮できる。←陳寿も正史『三国志』でそのように言及している。

③関羽遠征後の荊州の守備は諸葛亮が行えるため関羽の後方への不安が解消される。

関羽軍団は、諸葛亮がいなくても十分戦える。←独力で樊城(㐮陽だったかも?)を攻略している。

よって、張飛は関羽軍団に同行させたとして、諸葛亮指揮の下、趙雲・糜芳・傅士仁で後方の守備を行えば、仮に呉に攻められてもあっ さり拠点を奪われるとは考えにくい。さらに諸葛亮が荊州を守っているとわかれば、呂蒙・陸遜も容易に手出しができない。



などの可能性が生まれてくると思いますが、いかがでしょうか。







うーん難しい。

まぁ守り切れたとしても関羽の死後狙われそうだからね。

関羽が生きてても呉か魏に復讐してるかもしれないし。

だけど張飛・黄忠・劉備はもっと生きてた様な気がする。







そんなに変わりはないと思います







完全に変わってたと思います、関平、周倉、や張飛も死ななかったかもしれませんしね、関羽一人に荊州を背負わせちゃってたから人員を堅めてから攻めれば呉も出だしできなかっただろうし蜀が長安をとればかなり大きく変動したと思います、その直前に裏切りにあったのだから呉も蜀が長安を取る事を脅威に思ったのでしょう。







守れていたらすごいことです。

荊州は三国志の舞台でちょうど真ん中に位置していますから。

そこを拠点に統一も夢じゃなかったと思います。



しかし、劉禅がもっとちゃんとしていれば、ですね。

諸葛亮の最大のミスは、子供の教育を他人に任せたことですね。







もし守れたら劉備のことだから怒って呉に出陣するでしょう。しかし長江と陸遜の計略のまえに敗北それに北からは曹丕が曹仁などを連れて荊州を攻撃呉と魏はさらに友好になって五路から攻撃を受けて劉備は死んでなんとか諸葛亮が蜀をまもると思います。







守りきれる図が見えてこないからなぁ。もし関羽が守りきれた

としても彼が死んだ瞬間に魏呉に攻められて取られると思います。



結果歴史は変わらない。



荊州と益州は隣り合わせだけどあまりにもアクセスが悪すぎる。

いざと言う時に益州から援軍をすぐに送って守りきれる地では

ないのですよ。







そりゃ多少は変わっていたでしょう。益州だけに比べマシな北伐も出来たんじゃないかな。何せ蜀は地力がないので北伐に出るとき毎回呉に兵を出すよう土下座外交(は言い過ぎかな?)をやってたんですから。ただ呉の協力がほとんど望めなくなるし、荊州を保持していたところで魏との国力差は全く変わらないと言っていいです。恐らく滅ぼされる順番が蜀→呉ではなく呉→蜀の順になるぐらいじゃないですかね。

現実的に考えると、仮に関羽が荊州を失わなかったところで次の世代には州全体を統括できるほどの人材がいなかったので、結局は呉なり魏なりに奪われていたと思います。



・補足

そもそも呉と同盟を維持することなんて絶対出来ないです。何故なら呉と関係修復したいなら荊州を譲り渡すことが絶対条件だから。そんなことを認めるほど劉備も関羽もお人好しではないです。天下三分を維持するには、そして魏に対抗するには呉・蜀両者とも荊州が必要でした。最初から利害が一致してないから呉蜀同盟は破綻したと考えていいんじゃないかな。実際関羽が孫権の使者に罵声を浴びせるまでもなく両者の関係は冷え切ってました。益州を獲った時点で劉備と孫権の力関係は逆転していたはず。当時の蜀の中に荊州を譲り渡してでも孫権と同盟を維持しようと考えてた人間はいないでしょう。劉備が荊州を渡さない限り、孫権が荊州を攻めるのは規定路線だったように思えます。







どうでしょうね。

荊州は三国にとって重要地域の一つです。

いや最も重要であるといってもおかしくない。



関羽が生きている間荊州を守りきれたとしても、蜀が荊州を持っている限り蜀呉の関係はギクシャクし続けるでしょう。周瑜、魯粛が血眼になって欲していた地ですし。呉と同盟を結べないのなら蜀は強大な魏と単独で戦わざるを得ません。



やはりどこかで荊州の大半もしくは全土を割譲しなければならなかったでしょうね。

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