2012年3月20日火曜日

三国志の太史慈の活躍を教えてください

三国志の太史慈の活躍を教えてください







太史慈伝によれば、

身の丈七尺七寸(約180cm)、

髭(あげひげ)が立派な威丈夫とされます。

(けっこうイケメンだったようですね。)

太史慈は建安11(206年)に病死します。

41歳でした。

赤壁や、合肥攻防戦での活躍もありますが、

すべてフィクションとなります。



正史には、劉繇太史慈士燮伝第四の中の「太史慈伝」として、

単独の伝記を立てられています。

この第四という位置は、孫権(呉主)三嗣主伝に次ぐ位置で、

呉の后や宗家伝より先です。

つまり、呉の家臣との位置付けながら、

特別な存在とされていたのではないでしょうか。

つまり、客将というような扱いだったのではないかと思います。



現に、同じ伝の「劉繇」は孫策の敵でしたし、

「士燮」も孫権に膝を屈したとはいえ、

交州にほぼ独立勢力を認められています。

太史慈は、

そういう2人と一緒に諸侯として伝を立てられる特別な存在だったのでしょう。



太史慈は確かに孫策の死後も孫權の指示に従って海昏県を治めたり、

劉表の甥・劉磐の幾度に渡る侵攻も防ぎ、

黄祖討伐などでも大いに功績を挙げるなど、

多少の事跡はあるものの、じつはほとんど活躍をしていません。



太史慈伝の山場は孫策とのやりとりであり、

(揚州刺史・劉繇の配下時代、

不遇を囲い、偵察中に孫策と遭遇し、

太史慈はここで孫策に戦いを挑みます。

孫策は太史慈の馬を刺して、彼の背負っていた手戟を奪い、

太史慈も負けじと孫策の兜を奪うという、

一騎討ちになりました。

これは双方の軍勢が到着するまで続きました。)

その後孫策に帰順し、督、折衝中郎将(准将軍)に任命されます。

やがて劉繇逃亡後の残存兵帰順をかってでて、

周りの者は太史慈が逃亡すると讒言するものの、

孫策は太史慈を信じ、太史慈も「60日で帰順させる。」

と答え、太史慈はその言葉通りに帰還しました。



またそれ以前の孔融の下での活躍・劉繇の下での活躍に関しては、

詳細に書かれていますが、

孫策・孫權に従うようになってからの事跡はほとんど書かれていません。



『呉書』の他の人物の伝に出てくる回数も、

有名武将の割には非常に少ないです。

やはり、他の武将と違って、

「客将待遇」を受けていたと見たほうがいいような気がします。



人材蒐集家の曹操や、

常に人材不足で人を求めていた劉備などと違い、

孫呉は敵を降伏させて、

その武将を得るということがあまりありません。

海賊上りの甘寧は自分から帰順しましたし、

樊城の戦いで捕らえた于禁は帰順させることなく、

魏に送り返してしまっています。



曹操が、呉での太史慈の噂を聞いて、

「当帰」という薬草を贈ったという話もあります。

「帰る当し」、北に帰ってこいという謎かけの手紙というわけです。

あの曹操がヘッドハンティングを掛けようとしたところにも、

呉の他の武将と違った立場に、

太史慈は居たということでしょう。



呉はご存知のように豪族の寄せ集めの政権といわれていますが、

孫家が君臨すれども統治という認識が少ない「呉」としては、

かつての敵の武将から転職した太史慈というのは、

やはり異質な存在だったのではないでしょうか。



太史慈伝の最後に注釈を附けた裴松之は、

韋昭が書いた別の『呉書』の文章を引いています。

「太史慈は臨終にあたって嘆いた・・・

『大丈夫たる者、世に生を受けて、

七尺の剣を帯び天子の階を登るべし。

その志ならずに逝くか』と」。



このセリフを劇的な場面で言わせたいために、

演義では、合肥攻防戦まで生かしました。

41歳という速すぎる死が悔やまれる人物ですね。



孫権は屋敷に彼の息子である太史享を引き取り、

彼は後に越騎校尉にまでなりました。

陳寿は

「信義篤烈にして、古人の風格がある」と評しました。



『三国志傑物伝』三好徹〈光文社文庫)に20ページ程ですが、

太史慈の伝記があります。

目新しいものはないかとは思いますが、

書店で目に付いたら、ページをめくってみられればいかがでしょうか。



ちなみに、

「弓の名手」といえば、黄忠などの名が挙がりますが、

意外にも正史で記載があるのは

「夏候淵」と「太史慈」だけというのも、特筆ですね。








・役所へ届ける書類を屁理屈こねて握りつぶした

・都昌からの単騎脱出、救援要請

・孫策との遭遇戦、少し一騎討ち

・反乱勢力との結託を狙って孫策に抵抗

詳しくはググって。

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