「三国志」で、「孫権」の配下に説教爺さんのような家臣がいたように思います。
「蒼天航路」で見たはずですが本が旅に出ていて、名前が思い出せません。
逆らうばかりか、お互いの家の門に火を掛け合う喧嘩をしていたように思います。
実話でしょうか?
他にも、とんでもないエピソードがあったら教えて下さい。
呉ではこのような自由があったのでしょうか?
よろしくお願い致します。
呉は頑固爺さんの巣窟です
孫権の父孫堅・兄孫策が急逝したため呉の当主(正式にはこの時点では呉をではないですが)になった時、多くの臣下が3代に仕えていたことが挙げられます
ご質問の人物は「張昭(張子布)」のことです
別に呉では上記のような無茶をする気風があった訳ではなく、特に孫権が晩年耄碌してからは恐怖政治が台頭(孫[糸林]の専横や孫皓の悪逆振りは有名)し、結局滅亡しました
以下はリンク先から引用
「232年、公孫淵が呉への服属を願い出ると、孫権は使者を派遣して、公孫淵を燕王に封じようとした。張昭は公孫淵が本心から呉に従おうとしたわけではないと反対したが、孫権は結局使者を出発させた。張昭は腹を立て、病と称して家に引きこもり、出仕しなくなった。孫権は土で張昭の屋敷の門を塞いだが、張昭も負けずに内側から土で門を塞いだ。果たして公孫淵が孫権の使者を殺し、魏にその首を送った。孫権は何度もわびを入れたが、張昭は家に引きこもったままだった。さらに、孫権が直接門前から声を掛けても重病を理由に面会を断った。このため、孫権も怒って張昭の屋敷の門に火を放っておどかしたが、張昭はますます門を固く閉じた。そして、息子の張休らによって連れ出され、孫権も謝罪したので、ようやく出仕したと言われている」
史実ですが、現在手元に魏書の一部と蜀書しかないので出典が確認できません(本伝でなく裴松之の注釈だったかもしれません)
孫策は「内向きのことは張昭、戦争のことは周瑜に相談せよ」と言ったといわれますが、赤壁の戦いの時に曹操への降伏を薦めたために孫権からは遠ざけられました
呉の面白い(変人)頑固爺さんといえば「虞翻」が挙げられます
易者・医者などオールマイティーな才能を持つ文官ですが、言動は激しく反体制的で降将を鞭で撃ち殺そうとしたり、主を「死人」と皮肉ったりして晩年は交州(現在のベトナム付近)に追放になりました・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%98%AD
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9E%E7%BF%BB
張昭のことでしょうかね?
かなりの堅物だったと記憶しています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%BF%97%E...
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