三國志で巍の曹操、呉の孫権、蜀の劉備の中で結局誰が天下統一したんですか?赤壁の戦いで終わりじゃないですよね?
それに赤壁後に孫権と劉備の同盟はなくなったんですか?
詳しい方教えて下さい。
その3名は、誰も天下統一できませんでした。
中国を再び統一したのは、司馬炎と言う人物です。280年のことでした。
赤壁の戦いが208年だから、73年も先のことです。
この人は曹操の部下だった司馬仲達の孫になります。
247年に仲達が魏でクーデターを起こして国を乗っ取りました。
皇帝は曹一族ながら、国を動かす実権は完全に司馬一族の手中にあり、
さらには息子の司馬師らに受け継がれ、
263年には蜀に攻め込んでこれを滅ぼし、
265年には魏を完全に乗っ取って司馬炎が自ら皇帝になりました。
そして280年には呉も滅ぼして、天下統一を完成させたのです。
もっとも、それから40年も経たないうちに統一は破られます。
赤壁後も、孫権と劉備の同盟はしばらく続きます。
あまり良好な関係とは言えませんでしたが、
北に曹操という強大な勢力があるうちはその方が得策なので。
赤壁の戦い後、劉備は益州(後の蜀の領土)を攻め、占領します。
そのときに荊州の守備を関羽に任せ、自身は益州入りします。
そもそもこの荊州。赤壁の後劉備が獲得しますが、領有権でもめて
”孫権が貸し与え、劉備が益州を取ったら返還する”ということで収まります。
さて、益州を取った劉備。孫権は荊州の返還を求めますが、
劉備は「涼州(益州の北、魏領)を取ったら返還する。」と先延ばし。
孫権は怒って荊州を支配するため軍隊を派遣。三郡を奪います。
そこで劉備も大軍を派遣、全面戦争に発展しそうになるが、荊州の半分を孫権に割譲することで和解します。(214年)
216年、曹操は魏王という高い身分になります。
このとき劉備は漢中(魏に抑えられると北上は不可になるほど重要な地)を攻め、魏の夏侯淵を討ち漢中を奪い(定軍山の戦い)、この地をとった劉備は漢中王を名乗ります。
その頃関羽は魏に対し猛烈な攻撃を仕掛けていました。(一時は曹操が遷都を考えたほど)
そこで曹操は”長江南岸の領有を認める”という条件で孫権と同盟を結び、孫権に劉備を攻撃させます。
関羽の隙を突いた呂蒙・陸遜の策にはまり部下の裏切りもあって、関羽は孫権に捕らえられ処刑されました。
激しく怒った劉備は大軍をもって孫権を攻めるが、陸遜の策にはまり大敗。劉備は失意で病死します。(夷陵の戦い)
大勝した呉は荊州全土を領有、魏と同盟を結ぶ必要性がなくなり、劉備亡き後の蜀漢と再び同盟を結びます。
その後諸葛亮は7年間・5度の北伐を実施するが司馬懿らに阻まれ、諸葛亮の病死を気に退却。(234年)
魏では司馬懿がその軍功と権力から警戒されるようになり、権力を奪われます。
249年に司馬懿はクーデターを実施、権力を掌握します。(251年死去)
魏は263年に蜀を滅ぼし、265年に司馬炎(司馬懿の孫)が曹氏から禅譲をうけて魏は滅び晋が建国されます。
そして280年に晋は呉を滅ぼし、ここに三国時代は終了、晋が天下を統一します。
非常に長くなって申し訳ないです・・
誰も天下統一はしてません。皆死にました。蜀は劉禅の時に孔明の死後、宦官の腐敗と度重なる魏への進攻で国力を疲弊し魏に滅亡します。魏でクーデターが発生し司馬炎が魏を乗っ取り晋を建国し呉を滅ぼし中華を統一します。赤壁以降ですが簡単に言うと劉備が蜀建国直後に関羽が樊城の戦いで魏を攻めた際に呉の裏切りに合い関羽が殺害されてしまいます。その後、呉と関羽の弔い合戦へ張飛が出陣直前で暗殺され劉備もまた出陣しますが大敗し病死してしまいます。その後は孔明が生きている間は蜀と呉は同盟し蜀が長安付近まで進攻します。
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